3. 李垠殿下

 東京・渋谷区にある代々木公園は、緑に恵まれている。上野公園より広く、端から端まで歩くには、かなりの脚力が必要だ。散歩する人、芝生に寝ころぶ人(右写真)、バドミントンに興じる人など、思い思いに楽しんでいるが、以前は別の顔を持っていた。

 1909年(明治42年)に、陸軍の代々木練兵場が整備された。敗戦後の1945年に、アメリカに接収され、米軍宿舎・ワシントンハイツに生まれ変わった。1964年に、オリンピックの選手村になったことは、ご記憶の方が多いだろう。代々木公園として開放されたのは1967年。こうした変遷は、「激動の20世紀」を見る思いである。

 練兵場の名残はないものかと、代々木公園に足を運んでみた。広い公園を歩き回り、やっと見つけたのが、「日本航空発始之地」なるモニュメント。次のような説明がついていた。

 1910年(明治43年)12月19日、当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉は、アンリ・フォルマン式復業機を操縦して、4分間、きょり3000b、高度70bの飛行に成功した。・・・


 母の思い出話は、練兵場時代にさかのぼる。毎年正月に、陸軍の観兵式が行われていた。小学生の時に、最前列で観兵式を見学する機会があった。親戚が侍従武官をしていたので、招待されたらしい。

 観兵式なる言葉は、私には初耳だが、検索すると456件もあった。非常に華やかな行事だったことが、うかがえる。戦車や航空機が並び、歩兵隊や騎兵隊が行進する。白馬にまたがった天皇陛下や皇族が閲兵するというものだ。

 母は、とても寒かった事、地面がぬかるみでぐちゃぐちゃしていた事、李垠(イ・ウン)殿下がお気の毒だった事が忘れられない話す。殿下は背が低かったので、馬の鐙に足が届かず、何度も試みては失敗。お付き数人で押し上げてやっと騎乗出来た。些細な場面を鮮明に覚えているくせに、全体像となると、こころもとない。ちなみに、李殿下のご結婚は、母が6歳のころ。この時は、もう結婚なさっていた。

 母と殿下のかかわりは、目の前で拝見してお気の毒に思ったという、単にそれだけだが、日本の20世紀を語るうえで、李垠殿下を避けては通れない。母が「お気の毒に」と思った背景には、馬に乗れなかった事実に加え、生い立ちに同情していたのかもしれない。

 李垠殿下は、1897(明治30)年生まれの朝鮮李王朝最後の皇太子。1908年、11歳の時に伊藤博文に連れられて来日した。朝鮮の国民はこぞって反対し、特に母親は息子との別離を泣いて悲しんだが、当時の日本と朝鮮の力関係から言って、許される状況ではなかった。「毎年里帰りさせる」の約束は、博文が1909年に、ハルピン駅頭で暗殺されたこともあり、守られなかった。日韓併合は1910年。勉学のためという名目であったが、もちろん人質である。

 殿下は、梨本宮方子女王と1920年(大正9年)4月28日に結婚式をあげた。方子女王の父は、梨本宮守正王。母は「梨本宮伊都子の日記」で有名な伊都子妃。

 方子(まさこ)女王は、皇太子裕仁殿下(昭和天皇)の有力なお妃候補だった。軍閥同士の派閥争いが皇太子妃選抜にも影響して、結局、李殿下に嫁ぐことになった。

 「日本の将来のため日本と朝鮮の王室は固く結ばれ、両国民の模範とならなくてはなりません」と、寺内元帥から言い渡されたという。お互いの気持ちなど無視され、一方的に決められた。日鮮融和のためと言われては、楯突くことなど不可能な時代だった。

 左は、ご結婚時の写真。新聞の写真が、はっきりしないので、『李方子妃』(渡辺みどり著・読売新聞社発行)の表紙をお借りした。

 右は、4月28日付けの東京朝日新聞のコピー。李王世子殿下の握手の力に感嘆 本日めでたくご婚儀 とある。

 国家レベルの政略結婚のためか、おふたりの生活は、他の皇族が嫉妬するほど、経済的には恵まれていた。当時のぜいたくぶりは、今も残る旧李王邸で、垣間見ることができる。1930年に、赤坂御殿が完成した。

 この御殿を戦後に買い取ったのが、当時の衆議院議長の堤康次郎である。西武グループの長、堤氏が買った地は、赤坂プリンスホテルに生まれ変わった。

 左写真の後方に見える白っぽいビルが本館。手前が旧館。当時の李王御殿だ。現在は、ティールームや結婚式場になっているが、建物は当時のままだという。世が世なら、のぞくことすら出来ないお屋敷だが、今は、コーヒー代さえ惜しまなければ、誰でも入ることが出来る。

 私は、結婚式などで、何度か入ったことがあるが、高い天井、ステンドグラスの大窓、黒光りの階段や手すりなど、現代建築にはない重厚さを備えている。

 敗戦後、GHQから皇族の特権剥奪の指令が出て、李王夫妻は臣籍降下。陸軍中将だった殿下は、軍人ゆえに、一時金も支給されず、経済的には大変困ったようである。朝鮮王公族から一転して、在日韓国人として登録されることになった。在日韓国人には、軍人恩給も出なかったらしい。もっとも他の皇族が羨むほど別荘を何軒も持っていたので、タケノコ生活ができた。庶民の困難さとは比べようもない。

 思えば、李殿下は、日本に翻弄され続けた一生だった。11歳で人質として来日以来、自分の意志で発言することは叶わなかった。祖国への帰国希望は、李承晩大統領が反対した。結局、夫妻が韓国に入国できたのは、朴大統領に代わった1963年。終戦から18年もの月日が過ぎていた。

 55年ぶりの帰国の夢がかなった時には、すでに病床の身。ふるさとの山河を愛でることもなく、7年後の1970年にお亡くなりになった。方子妃は、夫の死後も韓国に留まり、福祉事業に携わっていた。私が、1988年に初めて韓国を訪れた時には、ご健在。「ここにお住まいですよ」と、昌徳宮の前で、ガイドが話してくれた。

 ガイドは、日本語を上手に操る年輩の女性だった。日本に対する思いは複雑なはずだが、「方子妃には親しみを感じる」と話していた。当初は冷たかった韓国の人々は、方子妃が熱心に福祉に携わる姿を見て、尊敬の念を持つようになったという。1989年にお亡くなりになったときの葬儀の模様をテレビ画面で見たが、実に盛大だった。(2004年5月19日 記)

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