母が語る20世紀

  21. 仙台空襲 前

 米軍による本格的な空襲は、昭和19(1944)年11月末に始まり、終戦(昭和20年8月15日)の朝まで続いた。9ヶ月に及ぶ空襲の被害は、死傷者・約81万人で、軍人の戦闘被害者・約78万人よりも多い。

 B29は、全長30b、翼長45b、重量54トン。最大時速580q、6,600qの航続距離を持ち、サイパンの基地とは17時間で往復できた。しかも、1万b以上の成層圏を飛ぶので、日本の戦闘機や高射砲では、歯が立たない。要するに、日本を空襲するには、絶好の飛行機だったと言える。(右のB29写真は「米軍が記録した日本空襲」より)

 仙台空襲は、昭和20年7月10日0時3分からおよそ2時間半に及んだ。被害そのものよりも、地方都市までやられたということで、日本人に与えた精神的な影響は大きかった。報道は規制されていたが、大本営発表を信じた人ばかりではないことを示す数字がある。

 日本の敗北を感じた人の比率は、昭和19年の12月には10%、20年の3月には19%、6月には46%、降伏直前には68%にまでのぼっている。この数字を見ると、空襲の激化と平行して、負けると思い始めた人数が増えている。

 父は、前項で記したように、新潟県・二本木の日本曹達に、毎月視察に行っていたが、7月も10日に帰省する予定で、二本木に滞在していた。何か予感がしたのだろうか。予定を早めて、8日の午後に工場を出発し、直江津の宿に泊まった。その宿で作ってくれる昼の弁当が、当時としてはご馳走で、ここに泊まる楽しみにもなっていた。

 直江津を朝発って郡山で乗り換え、夜9時過ぎに仙台駅に着いた。現在は新幹線を利用して3時間半の行程だが、その日・7月9日は丸一日かかっている。白石(仙台の南部)あたりで警戒警報のサイレンを聞いた。仙台駅に着いたときに又サイレンが鳴ったが、間もなく解除になり、暗い道を北四番町の家まで歩いて帰った。

 その後のことは、私が48歳のときに、朝日新聞に投書(テーマ談話室「食べる」)した文をお読みいただきたい。このシリーズの連載は長期にわたり、投書の一部が、本(左上)にまでなった。以下は、本をコピーして、貼り合わせたもの。



 字数制限があったので、思うことの半分も書けなかったが、電話をくれた係の方が「無駄のない文章ですよ」と褒めてくれたことを思い出す。制限のあるほうが、簡潔な文が書けるのかもしれない。

 新潟の直江津では、白米は難なく手に入ったと思われる。特別な客でもない父に、白米ご飯の弁当を持たせてくれたのだから。

 父は、この日の昼に何を食べたのだろう。何食分も作ってもらったのかもしれないが、子ども達に食べさせるために持ち帰った父の気持ちを思うと、胸が熱くなる。寝ている子を起こすのも父らしいが、起きてきた私達も、よほどご馳走に飢えていたのだろう。まさに「命を救った白いごはん」だった。

 仏壇の近くに落ちた火の粉は、どんどん広がっていった。父母は水槽の水をかけたが、たちまち火の海。防空壕の中は危ないので、逃げることになった。

 逃げようにも、玄関にはすでに火が回っていた。庭の高い塀から飛び降りるしかない。父が塀にのぼり、兄、姉、私を引っ張り上げて、塀の外に降ろした。降ろすと言うより、落とした。コンクリートの部分に落とされた私は、痛い痛いと激しく泣いたらしい。この時のことは、「治子は運動神経がないから」と、その後、何かというと、引き合いに出された。

 左地図は、河北新報(仙台に本社がある地方紙)の6月1日夕刊をコピーしたもの。仙台空襲60年ということで、シリーズで特集を組んでいる。友人のYちゃんに、新聞を送ってもらった。

 地図の赤い部分が、被災した地区である。青い線は市電の路線。仙台駅を赤い字で記したからおわかりかと思うが、中心部・市電の環状線の内部が被害にあっている。

 この地図を見ると、安積家は、なんて運が悪い家系かと思う。被災地のいちばん端に位置している。

 1歳の妹を10歳の姉が背負い、母が私を背負って台原方面(地図の北の方角)に逃げた。北五番町まで来たときに、父は衣類や貴重品を埋めてある防空壕に蓋をしていない事が気になり、台原の「瞑想の松」で落ち合うことで、自分だけ引き返した。

 結局、家は猛火に包まれなすすべがなかった。父は私たちと合流すべく、北六番町の二高の前に来たときに、爆弾が目の前に落ちた。いそいで道ばたの防空壕に入ると、そこに私たち5人がいたという。「この偶然がなかったら、どうなっていたかわからない」と、父母から何度も聞かされた。待ち合わせに決めていた「瞑想の松」付近には、爆弾が落ちて近づけなかったからだ。

 この偶然もそうだが、それ以上に幸運だったのは、父が予定を早めて帰ってきたことだ。もし父が10日まで二本木に滞在していたら、5人は、全滅していたと思う。父だけが残された可能性が大きい。こう考えると、運が悪いとばかり言い切れないような気もする。

 私には、この時の恐い記憶が何もない。妙なことだが、夜空からキラキラ光るものが落ちてきて、なんて綺麗だろうと眺めていた。信じてもらえないかもしれないが、その時の夜空はきれいだった。左写真は「7月10日の記録ー仙台市復興記念館発行ー」のコピー。「火の雨となって落下する焼夷弾」の説明がついている。

 足が痛かった記憶もない。父の手記には、逃避行中になんども爆弾がかすめ、その下を逃げ回った様子が書いてある。爆弾の音に記憶がなくて、キラキラだけが脳裏に残っているのは、どういうことなのか自分でもわからない。

 記録によると、空襲は2時間半。出撃したB29は123機。B29が旋回し、焼夷弾が落ちてくる中を、4人の子供を連れて逃げ回った父母の恐怖は、想像に余りある。

 爆弾の下を逃げ回った母は、31歳だった。 9歳のときに関東大震災(母が語る20世紀4)にあった母は、やはり猛火が迫る中を避難している。生涯に2度もこんな目に遭遇するのは珍しいのではないか。91歳になった母に、空襲の様子を聞くと、ときどき大震災の話になってしまう。無理もない気もするが、しっかり者だった母の脳の衰えを知るのは、娘としては悲しいものだ。

 空襲がおさまり、農家の庭で休ませてもらっている時に、私が依然として「痛い痛い」と泣いたらしい。たまたまそこにいたお医者さんが「骨折しているから、病院に行きなさい」と、指示してくれた。夜が明けて、大学病院(上の地図)で診てもらい、数日間入院したという。大学病院はかろうじて、災害を免れたが、大怪我や火傷ををした人で、ごった返していた。ちょっとした骨折まで手がまわらなかったのかもしれない。治療が完全ではなかったらしく、小学校3年生ころまで、ビッコだった。(2005年7月5日 記)

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