「仙台空襲」をお読みになった方から、DMや掲示板で、貴重な感想が寄せられました。私蔵するのは勿体ないので、「語り部」気取りで、感想編をまとめることにしました。直したり削っている部分もありますが、お許しを。★は男性、☆は女性。ピンクの字は、HARUKOの感想・注釈です。 以下で使用している写真は、『米軍が記録した日本空襲(平塚柾緒編集-草思社-)』から、お借りしました。 ★Aさん 私は山形市生まれ育ち。仙台空襲は、はっきり覚えています。あの日の夜、近所が騒ぎ出して、ぞろぞろ集まってきました。「夜なのに東の空が赤い・・」と。確かに、不気味な赤い空が見えましたね。誰言うとなしに、「方角からして仙台がやられているのではないか」。もちろんその推測はあたっていました、音はまったくなし。ただただ気持ちの悪い赤い空・・。いまだにはっきり覚えています。そんな記憶がこのような形で回顧できるとは・・。夢を見ているようです。 隣県の県庁所在地から見えたというのは、それだけ、火の勢いが激しかったのでしょうね。私は不気味とも恐いとも思わず、母の背にいました。山形は東北地方で唯一、B29による空襲がなかった県ですね。 ☆Bさん 爆弾も焼夷弾もはっきり覚えています。わが家は、直撃は受けなかったものの、入っていた防空壕に至近弾が落ち、崩れる土煙の中をはい出して、姉と手をつないで米機の下を逃げまどいました。HARUKOさんが言う「きれい!」というのも納得できます。あなたと同い年ぐらいの友人は、焼夷弾が落ちるのを「花火!花火!」と叫んだ記憶があると言います。 あれから60年、当時は今のような時代が来るとは思いもよりませんでした。私たち・子どもは、最後まで「勝つ!」と信じて疑わなかったですよ。 ☆Bさん 幼いときの記憶でありながら、その描写力はすごい。特に空襲を知っている私など、ありありと目に浮かびます。名古屋の空襲もひどかったのですが、地方都市・仙台もそれほどの惨状とは。知らなさすぎました。それにしてもすぐ翌日の新聞記事の空疎なこと。 当時を思い出すと、キーをたたく手も重いものがあります。学校の上級生40名が校庭の防空壕で爆死しています。あれから毎年、欠かすことなく暑い夏の日に法要が営まれています。 Bさんは、当時も今も名古屋にお住まいですが、記録によると、名古屋空襲は、6月9日と6月26日です。上級生が校庭の防空壕でお亡くなりになったということは、昼間の空襲だったのでしょうか。 ☆Bさん この空襲は、女学校入学前のことでしたので、改めて調べてみました。同窓会の会報に次の記事を見つけました。 『戦況益々厳しく、軍需工場に動員中の生徒たちの身を案じた校長が、学校工場を思い立ち強硬に交渉してやっと実現したところ、それが校庭に被弾し、思いも及ばぬ結果を招くことになりました。そのことについて校長は痛く苦しんでおられました』 20年1月23日の空襲のことでした。今回調べて初めて正確な日時を知りました。42名の女生徒が爆死いたしました。母校でありながら、美しく磨き上げられた校舎は跡形もなく、全然知らないのです。 調べて下さってありがとうございます。私が調べた主な空襲一覧は、頻繁に行われるようになった6月以降でした。あらためて、「米軍が記録した日本空襲」を見ると、名古屋だけの主な空襲一覧がありました。昭和19年12月13日から20年7月24日まで、17回もやられています。 20年1月23日の項には、「B29・60機来襲、死者125名、14時50分」とあります。自分が真夜中にやられたから、すべて夜中かと思いましたが、午後の3時頃だったのですね。校長先生が、よかれと思ってなさったことが、とんだことになり、亡くなった上級生も、校長先生もお気の毒でなりません。左上の写真には、「瓦礫の街と化した名古屋の中心街・広小路付近」の説明があります。 ★Cさん 市電の内部が集中的に攻撃されたようで、HARUKOさんの家は、とんだとばっちりでしたね。それにしてもお父上の1日早い帰省が幸いしましたね。防空壕にいないで逃げたことで、6人家族が無事でなによりでした。 私のように体験のない者には、実感がありません。銃後で非戦闘員の方の霊に、どのように報いたらいいのでしょうか。もうすぐお盆です。冥福を祈ります。 Cさんは、満州で生活していらっしゃったと聞いています。引き上げ時に、ご苦労はなかったのでしょうか。 ★Dさん 河北新報は自衛消防隊が結成されていて、自宅が焼けるのも構わず、隊員が社屋と輪転機を守ったので、新聞の発行を休むことなく続けることができたと聞きました。 家を顧みずに職場を守った似たような話は、先日の河北新報に載っていました。「東北帝大・金研の当直員のI さんが、懸命に水をかけ続け、大学構内の木造校舎では唯一焼失を免れた。世界的研究を守り抜いたとして、金研所長の本多光太郎氏と熊谷学長が、Iさんに表彰状を送った」。 ★Eさん 仙台であれほどの大空襲があったのは知りませんでした。民間の死者が、軍人より多いとは。日本の戦意を喪失させるために、戦争には関係ない民間も集中的に爆撃する米国の非人道的なやり方を知らせるのに、良い資料と思います。 お父上が爆撃の日に帰宅され、直江津で手に入れた白米ご飯が一家の運命を救った。仏壇の前で直撃団、家に帰って戻る途中にまた爆弾、そして逃げ込んだ防空壕の中で家族と巡り会えた奇跡。非常に強運の方とお見受けしました。戦争という異常時にはその人の生死を分ける奇跡がよくおきます。 私は、ペナン沖で撃沈されてからは、ビルマ・インドでも爆撃にあったことがないのです。ただ、インパール作戦の敗戦末期に、連絡出張に出かけ、そこに薦められるままに宿泊していたら、他の将校と一緒に皆殺しにあっていたのです。その件は「南十字星」に詳しく書きますが、常に「死」と隣り合わせの仕事をしていながら、危険を避けられたのは幸運としか思えません。そういう意味で私も強運でした。 直江津、懐かしいですね。山国では海が見られないので、小学6年になると海を見に小学旅行で直江津に行くのです。 ★Eさん 迫力と緻密な描写に空襲の悲惨さが胸に沁みました。とてもお母さんの語りとは思えず、HARUKOさんご自身の体験記のように読んでしまいました。焼け跡から出てきたお茶の鉄釜、化学者のお父さんが思わず箪笥の土をのけてしまった話は、真に迫っていました。 Eさんは、軍の機密機関に属していました。そのいきさつを「南十字星」というブログに書いていますので、是非ご覧下さい。リンクしてあります。当時の軍人の腐敗ぶりなど、そこにいた方ならではの貴重な記録です。 ☆Fさん 8月が近づくと、疎開先の富山での大空襲を思い出す。B29の爆音、頭上から落下する親子焼夷弾の耳をつんざく音。 私は、昭和19年の1月に、東京・小石川区から祖母のいる富山市へ、仕事の父を残し、母と姉弟(私は国民学校1年、姉は3年、弟ふたり)で疎開した。小石川の家は、昭和20年5月の空襲で焼失した。 昭和20年6月ころから、富山もたびたび空襲警報のサイレンが鳴り、特に7月に入ってからは、毎晩のように警報で悩まされるようになった。 8月1日の晩も、10時頃サイレンが鳴り、やがてB29の編隊が上空を通過したため、間もなく警報が解除された。このパターンはいつもの事と安心して、寝入った。いきなり縁側のガラス戸の割れる音に起こされた時は、すでに裏の方は炎が上がり、パチパチ燃えだしていた。 無我夢中で外へ飛びだし、逃げていく大勢の市民の後についていくしかなかった。せっかく履いていた運動靴が途中で脱げても戻れない。ほとんど裸足だった。幸い祖母の家は、郊外にあったので、すぐ田園地帯になり火の手から逃れられたが、実り始めた稲穂にも火が移り燃え始めた時の恐ろしさは、忘れることができない。 お湯になって流れる小川にしゃがみ込み、ひたずら敵機が去るのを待った。わずか2時間弱の攻撃だったらしいが、とても長く感じられた。祖母と乳飲み子を含めた母子全員が無事だったことは奇跡としか言いようがなかった。 当夜は満月で目標が定めやすく、晴天続きで乾燥していた上に、強い南風。投下された焼夷弾12,000個が効果的に市街を焼き尽くした。罹災所帯25,000、罹災人口11万人、死者2,275人、重軽傷約8,000人。この一夜で富山市内の95%が消滅した。中小都市のなかで、焼失率が全国一だった。なぜ富山市が敵の攻撃の的になったのか、なぜ大きな工場が無傷で残ったのか。長い間不思議だったが、疑問を払拭する記事が、1988(昭和63)年7月28日の朝日新聞に載った。 8月1・2日の空襲は、米航空軍司令官・カーチス・ルメイ少将栄転の「餞別」と陸軍航空部隊創設記念日の「祝賀」を兼ねていたという。餞別と祝賀を兼ねた爆撃という記事に目を疑い、何度も読み返した。 あれから60年、日本や私たちの生活は大きく変わったが、あの夜のことは私の記憶に刻まれたまま、毎年8月になると脳裏によみがえってくる。 稲穂に火が燃え移ったときの恐怖、小川がお湯になってしまったことなど、経験した方ならではの、リアルな描写に、あらためて、平和のありがたさを感じています。イラクの市民は、いつもこんな恐怖にさらされていると思うと、いたたまれません。 ルメイ少将の餞別だと?陸軍航空部創設記念日の祝賀だと?ふざんけんな!ですね。左上の写真には、「空襲を受け炎上する富山」の説明があります。 ☆Gさん 昭和20年8月1日夜、国民学校(今の小学校)1年生のとき、父の赴任地の長岡市(新潟県)で戦災にあいました。私は6歳、弟はまもなく2歳の時でした。今でも空襲のときのことは、はっきり覚えています。 その夜、父は仕事で不在。母と弟とで配給のジャガイモだけの遅い夕食をとっていた時のことです。9時ころ警戒警報のサイレンが鳴りました。そのうち空襲警報に変わったので、あわてて押入に入り、親子3人がジーと息を潜めていました。 そのうちドカンドカンと爆撃の破裂するような音がするので、押入から出ました。すると、あたりは昼間のように明るく、庭のカボチャのつるが燃えているのがわかりました。「火事だ!ここにいては危ない!」と、近所の人達と逃げ出しました。私は母から離れないようにと命がけでした。一面、火の海、あまりの暑さに耐えられません。布団や防空頭巾に防火用水の水をかけて、火の粉から身を守りました。 逃げる途中で、背中の子供が死んでいるのも気づかない母親、石の上で動かず座って死んでいるお婆さんも見ました。金切り声をあげて母の名を呼んだり、子の名を呼ぶ人々でいっぱいでした。私も、いつ身体に爆弾が突き刺さるかわからない恐怖、子供ながら死にものぐるいで逃げました。阿鼻叫喚とはこのことだと後で思いました。「どうせ死ぬならみんな一緒に」と、死に場所を求めて小学校の校庭の隅にひれ伏していました。 その時、「おーい、おーい、みんなこっとへ来ーい」とがなり立てる人がいました。声を頼りに進みました。「天の声」とはこのことです。その声は今でも記憶に残っています。やっとたどり着いた所は田んぼで、そこだけ焼け残り、あぜ道には、避難してきた人々でいっぱいでした。人の名を呼んで安否を尋ね歩く人、人、人でした、 長く感じられた空襲もおさまり、ああこれで助かったとホッとしました。辺りを見渡すと、鮮やかなくらい空は一面真っ赤で、まるで昼間のようでした。敵機が去っても気が抜けて、焼けていく空をボーとながめていました。 私と弟は足に火傷を負い、診察してもらおうと小学校の臨時救護所にやっとの思いで、たどり着きました。体育館は、ムシロの上に寝かされた人でいっぱい。それも次々に息を引き取っていきました。廊下では、水、水と叫ぶ人の声、教室が診察室、机がベッドがわりになりました、机の上には皮膚が剥けた人、鼻がない人など、それは目を覆いたくなる無惨な姿でした。私達の火傷などは、後回しでした。 このとき、1時間40分の空襲で1,460余人の命が奪われました。長岡が空襲に遭ったのは、周辺の油田と軍需機械工具の生産地であり、加えて、連合艦隊司令長官・山本五十六の出身地であったからだと聞いています。この日の空襲は、長岡のほかに、富山、八王子、水戸の4都市に及びました。これらの空襲は、アメリカ陸軍司令官・ルメイの辞任の餞別として行われたことを、後に知りました。8月が来るたびに、平和のありがたさをしみじみ感じます。 FさんとGさんは、奇しくも同じ日に、逃げ回ったのですね。「水!水」のせりふや、死んでいる子供に気づかない母親、座ったまま死んでいるお婆さんの話など、Fさん同様、体験した方ならではの描写は、涙なしには読めません。小学校の臨時救護所の悲惨にも目を覆いたくなります。つらい思い出を書いてくださってありがとう。戦争を知らない世代に読んでもらいたいです。国民学校1年生にしては、細かいことまで、よく覚えていますね。それほど強烈な体験だったからでしょうか。 FさんGさんの手記に出てくる、ルメイ少将の顔写真がありました。マッカーサーみたいに、パイプを口にくわえていますね。『米軍が記録した日本空襲』の記事には「昭和20年1月21日、ハンセル准将は川崎航空機明石工場への精密爆撃成功にもかかわらず、第21爆撃軍司令官の職を解かれ、かわってカーチス・E・ルメイ少将が着任した」とあります。 ★Uさん 終戦で引き上げるまで韓国の釜山に住んでいたので、米軍の空襲に遭った経験はありません。警報が鳴って防空壕に逃げても入り口から空を眺めていました。B29が高いところを飛んでいるのでしょう。何も見えない夜空に、高射砲弾が炸裂する明かりだけが散発的に見えるだけでした。 玉音放送は、ラジオが古かったせいか、よく聞き取れませんでした。聞き取れたとしても、小学校5年の私には理解できなかったかも知れません。 翌日からは、召集されて不在の父や長兄に代わって、祖父母と母が釜山からの引き上げ準備の相談に入ったようです。私が覚えていることは、日本人が朝鮮人に襲われるのではないかと心配していたこと、貯金の引き出しに郵便局に大勢の人に混じって祖母と並んだこと、近所にあった憲兵隊の官舎がすぐに空っぽになったという話が流布したことです。私たちは家族の先陣として9月10日に引き上げてきました。引き上げた田舎では、主として食べ物のことで周囲の人々との辛い場面に遭遇しました。 釜山にいらしたので、空襲はご存知ないのですね。釜山からもB29が見えたのですか?玉音放送が釜山にまで流されたことに驚きました。台湾や満州でも、ラジオ放送があったのでしょうか。 ★Vさん 45番目だったらしい甲府空襲は私が国民学校1年生の時。焼夷弾爆撃をまともに受けました。街の西を流れる荒川の土手の近くにあった我が家は、アメリカ軍の最初の目標になり、爆撃を早々に受けることになりました。 枕元にいつも置いていた防空頭巾とランドセルを背負い、気がついたらチンバだった長靴を履いて家の前の防空壕に逃げ込みました。照明弾が昼間のように明るく照らす下は、すっかり火の海になり、川に向かって避難する行列が増えるほどに、防空壕の中の温度もあがり、その熱さに耐えられず、行列に加わりました。当時山羊を飼っていて、餌のために、川の浅瀬を渡って対岸の草刈りに行っていたのが幸いして、対岸に辿りつくことができました。 偶然飛び込んだ対岸の防空壕は、甲府でも有名な布団屋のもので、ゆったりと休めたものの、次の日に、土手に横たわる丸焦げの人、丸太を散らばしたように川を流れる焼け爛れた死体を見ました。焼け残った建物が、空襲も無いのに急に燃え出して余熱の凄さをまざまざと眺めたのも忘れられません。 こんな地獄絵を見ながらも精神的に大きなショックを受けなったのは世間知らずだったのに加えて、家族や身近に直接の犠牲者いなかったからでしょうか。 それからは父の実家に帰って、高校に入るまで過ごしましたが、HARUKOさん達が疎開先で味わった苦渋の経験を読んで、思い出すことが沢山ありました。 地方都市空襲一覧によれば、甲府空襲は、7月6日夜。B29が139機来襲とあります。仙台とほぼ同じ数のB29です。お互いに無事だったからこそ、14年後に会えたわけですね。 ☆Hさん 私も逃げ回った記憶があります。私達が、かすかに記憶している最後の年代ですね。広島に住んでいましたが、原爆が落とされるなど知らなかったのに、両親の判断で、仙台の農学部裏の雨宮に戻ってきました。今の農学部は軍の施設になっていたので、焼夷弾が何度も落ち、真っ赤に燃えていた事を覚えています。わが家の前後にも落ちて、道路の真ん中に大きな穴があいていました。 仙台の「戦災復興記念館は、毎年、今頃になると、当時の写真を展示しています。10日は、「すいとん」を100円で出したそうです。 雨宮は、私が空襲に遭った家のすぐ近くですね。直撃されなかったとは、運がよいご一家だわ。更なる幸運は、広島から仙台に戻ったことですね。 左上の写真の説明には、「B29に搭載される各種爆弾を点検する隊員たち」とあります。こんなものがバラバラを落ちてくる中を、Hさんも私も逃げました。 ☆Iさん あの日は、恐いとも思わず、防空壕の中に寝かされていたと思います。私の家は仙台の南ですから、戦火を免れましたが、兄が「空が真っ赤だよ」と興奮していました。 父は、なぜか戦争には行かず、軍需工場で働いていました。終戦直後に腸閉塞で亡くなったのです。病院が遠かったので、母がリヤカーで運んでいったのを覚えています。しかも、盲腸と誤診されて、手遅れだったのですよ。戦後のどさくさですものねえ。父はまだ39歳でした。 両親の実家が農家なので、「白いごはん」はどうにか手に入っていましたよ。でも大根葉の入ったご飯がとても美味しかった!! 中心部から離れた地域は、ほとんど被災していませんね。高校で、空襲の話をしても、ほとんどの人は「覚えてない」と言ってました。被害がなかったからだと思うのです。夫の父親も、終戦後の誤診がもとで、亡くなりました。 ★Jさん ☆M さん 私は昭和20年8月7日に生まれました。これでも「戦中派」です。母の実家は、仙台市内の南町通りにありましたが、県北の三本木に田畑を持っており、母は横浜から疎開してきて、そこで私が産まれました。ノミ除けのため、桐のタンスの引き出しが、ベッド代わりだったということです。 南町通りはもちろん戦火に遭い、祖父母は戦後、不在地主対策のために三本木に移り住みました。父は従軍し腕に銃弾を受けて帰ってきました。父の片腕は十分曲げられない状態のまま、病を得て、今で言う治療ミスで39歳で亡くなりました。というわけで、仙台空襲は私にとっても他人事ではないのです。 上にあるIさんのお父さんも、治療ミスで39歳でお亡くなりになっています。当時は、そういう話はたくさんあったようです。私の足に少々ビッコが残ったのは、仕方ないですね。 ★Nさん 昨日、叔母親子の法要を滞りなく務め、改めて非戦の誓いをしました。「母が語る20世紀」は、あと数回は続くと思いますが、終了後にぜひ、冊子にしていただければと思います。母上の思い出を通して、まさしく日本の近・現代史が息づいているからです。 Mさんの叔母さんと1歳の赤ちゃんは、仙台空襲で命を落としました。私の母と同年齢の叔母さんです。そのときの赤ちゃんは、空襲さえなければ、還暦を過ぎています。毎年、親戚の方が、法要していることに感銘を受けました。ずんだ餅は、枝豆で作ったアンをまぶした餅。私も大好きですが、叔母様もお好きだったのでしょうね。 ☆Oさん ☆Pさん Oさんは仙台にご縁のある方。何度も聞いているうちに、脳裏に残ってしまったのですね。こうして次世代に伝えられれば、いいのですが。 ☆Qさん |