母が語る20世紀

 23. 仙台空襲 感想編

 「仙台空襲」をお読みになった方から、DMや掲示板で、貴重な感想が寄せられました。私蔵するのは勿体ないので、「語り部」気取りで、感想編をまとめることにしました。直したり削っている部分もありますが、お許しを。★は男性、☆は女性。ピンクの字は、HARUKOの感想・注釈です。

以下で使用している写真は、『米軍が記録した日本空襲(平塚柾緒編集-草思社-)』から、お借りしました。

私より年上の方

★Aさん
私は山形市生まれ育ち。仙台空襲は、はっきり覚えています。あの日の夜、近所が騒ぎ出して、ぞろぞろ集まってきました。「夜なのに東の空が赤い・・」と。確かに、不気味な赤い空が見えましたね。誰言うとなしに、「方角からして仙台がやられているのではないか」。もちろんその推測はあたっていました、音はまったくなし。ただただ気持ちの悪い赤い空・・。いまだにはっきり覚えています。そんな記憶がこのような形で回顧できるとは・・。夢を見ているようです。

隣県の県庁所在地から見えたというのは、それだけ、火の勢いが激しかったのでしょうね。私は不気味とも恐いとも思わず、母の背にいました。山形は東北地方で唯一、B29による空襲がなかった県ですね。

☆Bさん
爆弾も焼夷弾もはっきり覚えています。わが家は、直撃は受けなかったものの、入っていた防空壕に至近弾が落ち、崩れる土煙の中をはい出して、姉と手をつないで米機の下を逃げまどいました。HARUKOさんが言う「きれい!」というのも納得できます。あなたと同い年ぐらいの友人は、焼夷弾が落ちるのを「花火!花火!」と叫んだ記憶があると言います。

あれから60年、当時は今のような時代が来るとは思いもよりませんでした。私たち・子どもは、最後まで「勝つ!」と信じて疑わなかったですよ。

☆Bさん
幼いときの記憶でありながら、その描写力はすごい。特に空襲を知っている私など、ありありと目に浮かびます。名古屋の空襲もひどかったのですが、地方都市・仙台もそれほどの惨状とは。知らなさすぎました。それにしてもすぐ翌日の新聞記事の空疎なこと。

当時を思い出すと、キーをたたく手も重いものがあります。学校の上級生40名が校庭の防空壕で爆死しています。あれから毎年、欠かすことなく暑い夏の日に法要が営まれています。

Bさんは、当時も今も名古屋にお住まいですが、記録によると、名古屋空襲は、6月9日と6月26日です。上級生が校庭の防空壕でお亡くなりになったということは、昼間の空襲だったのでしょうか。

☆Bさん
この空襲は、女学校入学前のことでしたので、改めて調べてみました。同窓会の会報に次の記事を見つけました。

『戦況益々厳しく、軍需工場に動員中の生徒たちの身を案じた校長が、学校工場を思い立ち強硬に交渉してやっと実現したところ、それが校庭に被弾し、思いも及ばぬ結果を招くことになりました。そのことについて校長は痛く苦しんでおられました』

20年1月23日の空襲のことでした。今回調べて初めて正確な日時を知りました。42名の女生徒が爆死いたしました。母校でありながら、美しく磨き上げられた校舎は跡形もなく、全然知らないのです。

調べて下さってありがとうございます。私が調べた主な空襲一覧は、頻繁に行われるようになった6月以降でした。あらためて、「米軍が記録した日本空襲」を見ると、名古屋だけの主な空襲一覧がありました。昭和19年12月13日から20年7月24日まで、17回もやられています。

20年1月23日の項には、「B29・60機来襲、死者125名、14時50分」とあります。自分が真夜中にやられたから、すべて夜中かと思いましたが、午後の3時頃だったのですね。校長先生が、よかれと思ってなさったことが、とんだことになり、亡くなった上級生も、校長先生もお気の毒でなりません。左上の写真には、「瓦礫の街と化した名古屋の中心街・広小路付近」の説明があります。


★Cさん
市電の内部が集中的に攻撃されたようで、HARUKOさんの家は、とんだとばっちりでしたね。それにしてもお父上の1日早い帰省が幸いしましたね。防空壕にいないで逃げたことで、6人家族が無事でなによりでした。

私のように体験のない者には、実感がありません。銃後で非戦闘員の方の霊に、どのように報いたらいいのでしょうか。もうすぐお盆です。冥福を祈ります。

Cさんは、満州で生活していらっしゃったと聞いています。引き上げ時に、ご苦労はなかったのでしょうか。

★Dさん
河北新報は自衛消防隊が結成されていて、自宅が焼けるのも構わず、隊員が社屋と輪転機を守ったので、新聞の発行を休むことなく続けることができたと聞きました。

家を顧みずに職場を守った似たような話は、先日の河北新報に載っていました。「東北帝大・金研の当直員のI さんが、懸命に水をかけ続け、大学構内の木造校舎では唯一焼失を免れた。世界的研究を守り抜いたとして、金研所長の本多光太郎氏と熊谷学長が、Iさんに表彰状を送った」。
 
★Eさん
仙台であれほどの大空襲があったのは知りませんでした。民間の死者が、軍人より多いとは。日本の戦意を喪失させるために、戦争には関係ない民間も集中的に爆撃する米国の非人道的なやり方を知らせるのに、良い資料と思います。

お父上が爆撃の日に帰宅され、直江津で手に入れた白米ご飯が一家の運命を救った。仏壇の前で直撃団、家に帰って戻る途中にまた爆弾、そして逃げ込んだ防空壕の中で家族と巡り会えた奇跡。非常に強運の方とお見受けしました。戦争という異常時にはその人の生死を分ける奇跡がよくおきます。

私は、ペナン沖で撃沈されてからは、ビルマ・インドでも爆撃にあったことがないのです。ただ、インパール作戦の敗戦末期に、連絡出張に出かけ、そこに薦められるままに宿泊していたら、他の将校と一緒に皆殺しにあっていたのです。その件は「南十字星」に詳しく書きますが、常に「死」と隣り合わせの仕事をしていながら、危険を避けられたのは幸運としか思えません。そういう意味で私も強運でした。

直江津、懐かしいですね。山国では海が見られないので、小学6年になると海を見に小学旅行で直江津に行くのです。

★Eさん
迫力と緻密な描写に空襲の悲惨さが胸に沁みました。とてもお母さんの語りとは思えず、HARUKOさんご自身の体験記のように読んでしまいました。焼け跡から出てきたお茶の鉄釜、化学者のお父さんが思わず箪笥の土をのけてしまった話は、真に迫っていました。

Eさんは、軍の機密機関に属していました。そのいきさつを「南十字星」というブログに書いていますので、是非ご覧下さい。リンクしてあります。当時の軍人の腐敗ぶりなど、そこにいた方ならではの貴重な記録です。

☆Fさん
8月が近づくと、疎開先の富山での大空襲を思い出す。B29の爆音、頭上から落下する親子焼夷弾の耳をつんざく音。

私は、昭和19年の1月に、東京・小石川区から祖母のいる富山市へ、仕事の父を残し、母と姉弟(私は国民学校1年、姉は3年、弟ふたり)で疎開した。小石川の家は、昭和20年5月の空襲で焼失した。

昭和20年6月ころから、富山もたびたび空襲警報のサイレンが鳴り、特に7月に入ってからは、毎晩のように警報で悩まされるようになった。

8月1日の晩も、10時頃サイレンが鳴り、やがてB29の編隊が上空を通過したため、間もなく警報が解除された。このパターンはいつもの事と安心して、寝入った。いきなり縁側のガラス戸の割れる音に起こされた時は、すでに裏の方は炎が上がり、パチパチ燃えだしていた。

無我夢中で外へ飛びだし、逃げていく大勢の市民の後についていくしかなかった。せっかく履いていた運動靴が途中で脱げても戻れない。ほとんど裸足だった。幸い祖母の家は、郊外にあったので、すぐ田園地帯になり火の手から逃れられたが、実り始めた稲穂にも火が移り燃え始めた時の恐ろしさは、忘れることができない。

お湯になって流れる小川にしゃがみ込み、ひたずら敵機が去るのを待った。わずか2時間弱の攻撃だったらしいが、とても長く感じられた。祖母と乳飲み子を含めた母子全員が無事だったことは奇跡としか言いようがなかった。

当夜は満月で目標が定めやすく、晴天続きで乾燥していた上に、強い南風。投下された焼夷弾12,000個が効果的に市街を焼き尽くした。罹災所帯25,000、罹災人口11万人、死者2,275人、重軽傷約8,000人。この一夜で富山市内の95%が消滅した。中小都市のなかで、焼失率が全国一だった。なぜ富山市が敵の攻撃の的になったのか、なぜ大きな工場が無傷で残ったのか。長い間不思議だったが、疑問を払拭する記事が、1988(昭和63)年7月28日の朝日新聞に載った。

8月1・2日の空襲は、米航空軍司令官・カーチス・ルメイ少将栄転の「餞別」と陸軍航空部隊創設記念日の「祝賀」を兼ねていたという。餞別と祝賀を兼ねた爆撃という記事に目を疑い、何度も読み返した。

あれから60年、日本や私たちの生活は大きく変わったが、あの夜のことは私の記憶に刻まれたまま、毎年8月になると脳裏によみがえってくる。

稲穂に火が燃え移ったときの恐怖、小川がお湯になってしまったことなど、経験した方ならではの、リアルな描写に、あらためて、平和のありがたさを感じています。イラクの市民は、いつもこんな恐怖にさらされていると思うと、いたたまれません。

ルメイ少将の餞別だと?陸軍航空部創設記念日の祝賀だと?ふざんけんな!ですね。左上の写真には、「空襲を受け炎上する富山」の説明があります。


Gさん
昭和20年8月1日夜、国民学校(今の小学校)1年生のとき、父の赴任地の長岡市(新潟県)で戦災にあいました。私は6歳、弟はまもなく2歳の時でした。今でも空襲のときのことは、はっきり覚えています。

その夜、父は仕事で不在。母と弟とで配給のジャガイモだけの遅い夕食をとっていた時のことです。9時ころ警戒警報のサイレンが鳴りました。そのうち空襲警報に変わったので、あわてて押入に入り、親子3人がジーと息を潜めていました。

そのうちドカンドカンと爆撃の破裂するような音がするので、押入から出ました。すると、あたりは昼間のように明るく、庭のカボチャのつるが燃えているのがわかりました。「火事だ!ここにいては危ない!」と、近所の人達と逃げ出しました。私は母から離れないようにと命がけでした。一面、火の海、あまりの暑さに耐えられません。布団や防空頭巾に防火用水の水をかけて、火の粉から身を守りました。

逃げる途中で、背中の子供が死んでいるのも気づかない母親、石の上で動かず座って死んでいるお婆さんも見ました。金切り声をあげて母の名を呼んだり、子の名を呼ぶ人々でいっぱいでした。私も、いつ身体に爆弾が突き刺さるかわからない恐怖、子供ながら死にものぐるいで逃げました。阿鼻叫喚とはこのことだと後で思いました。「どうせ死ぬならみんな一緒に」と、死に場所を求めて小学校の校庭の隅にひれ伏していました。

その時、「おーい、おーい、みんなこっとへ来ーい」とがなり立てる人がいました。声を頼りに進みました。「天の声」とはこのことです。その声は今でも記憶に残っています。やっとたどり着いた所は田んぼで、そこだけ焼け残り、あぜ道には、避難してきた人々でいっぱいでした。人の名を呼んで安否を尋ね歩く人、人、人でした、

長く感じられた空襲もおさまり、ああこれで助かったとホッとしました。辺りを見渡すと、鮮やかなくらい空は一面真っ赤で、まるで昼間のようでした。敵機が去っても気が抜けて、焼けていく空をボーとながめていました。

私と弟は足に火傷を負い、診察してもらおうと小学校の臨時救護所にやっとの思いで、たどり着きました。体育館は、ムシロの上に寝かされた人でいっぱい。それも次々に息を引き取っていきました。廊下では、水、水と叫ぶ人の声、教室が診察室、机がベッドがわりになりました、机の上には皮膚が剥けた人、鼻がない人など、それは目を覆いたくなる無惨な姿でした。私達の火傷などは、後回しでした。

このとき、1時間40分の空襲で1,460余人の命が奪われました。長岡が空襲に遭ったのは、周辺の油田と軍需機械工具の生産地であり、加えて、連合艦隊司令長官・山本五十六の出身地であったからだと聞いています。この日の空襲は、長岡のほかに、富山、八王子、水戸の4都市に及びました。これらの空襲は、アメリカ陸軍司令官・ルメイの辞任の餞別として行われたことを、後に知りました。8月が来るたびに、平和のありがたさをしみじみ感じます。

FさんとGさんは、奇しくも同じ日に、逃げ回ったのですね。「水!水」のせりふや、死んでいる子供に気づかない母親、座ったまま死んでいるお婆さんの話など、Fさん同様、体験した方ならではの描写は、涙なしには読めません。小学校の臨時救護所の悲惨にも目を覆いたくなります。つらい思い出を書いてくださってありがとう。戦争を知らない世代に読んでもらいたいです。国民学校1年生にしては、細かいことまで、よく覚えていますね。それほど強烈な体験だったからでしょうか。

FさんGさんの手記に出てくる、ルメイ少将の顔写真がありました。マッカーサーみたいに、パイプを口にくわえていますね。『米軍が記録した日本空襲』の記事には「昭和20年1月21日、ハンセル准将は川崎航空機明石工場への精密爆撃成功にもかかわらず、第21爆撃軍司令官の職を解かれ、かわってカーチス・E・ルメイ少将が着任した」とあります。

★Uさん
終戦で引き上げるまで韓国の釜山に住んでいたので、米軍の空襲に遭った経験はありません。警報が鳴って防空壕に逃げても入り口から空を眺めていました。B29が高いところを飛んでいるのでしょう。何も見えない夜空に、高射砲弾が炸裂する明かりだけが散発的に見えるだけでした。

玉音放送は、ラジオが古かったせいか、よく聞き取れませんでした。聞き取れたとしても、小学校5年の私には理解できなかったかも知れません。

翌日からは、召集されて不在の父や長兄に代わって、祖父母と母が釜山からの引き上げ準備の相談に入ったようです。私が覚えていることは、日本人が朝鮮人に襲われるのではないかと心配していたこと、貯金の引き出しに郵便局に大勢の人に混じって祖母と並んだこと、近所にあった憲兵隊の官舎がすぐに空っぽになったという話が流布したことです。私たちは家族の先陣として9月10日に引き上げてきました。引き上げた田舎では、主として食べ物のことで周囲の人々との辛い場面に遭遇しました。

釜山にいらしたので、空襲はご存知ないのですね。釜山からもB29が見えたのですか?玉音放送が釜山にまで流されたことに驚きました。台湾や満州でも、ラジオ放送があったのでしょうか。

★Vさん
45番目だったらしい甲府空襲は私が国民学校1年生の時。焼夷弾爆撃をまともに受けました。街の西を流れる荒川の土手の近くにあった我が家は、アメリカ軍の最初の目標になり、爆撃を早々に受けることになりました。

枕元にいつも置いていた防空頭巾とランドセルを背負い、気がついたらチンバだった長靴を履いて家の前の防空壕に逃げ込みました。照明弾が昼間のように明るく照らす下は、すっかり火の海になり、川に向かって避難する行列が増えるほどに、防空壕の中の温度もあがり、その熱さに耐えられず、行列に加わりました。当時山羊を飼っていて、餌のために、川の浅瀬を渡って対岸の草刈りに行っていたのが幸いして、対岸に辿りつくことができました。

偶然飛び込んだ対岸の防空壕は、甲府でも有名な布団屋のもので、ゆったりと休めたものの、次の日に、土手に横たわる丸焦げの人、丸太を散らばしたように川を流れる焼け爛れた死体を見ました。焼け残った建物が、空襲も無いのに急に燃え出して余熱の凄さをまざまざと眺めたのも忘れられません。

こんな地獄絵を見ながらも精神的に大きなショックを受けなったのは世間知らずだったのに加えて、家族や身近に直接の犠牲者いなかったからでしょうか。

それからは父の実家に帰って、高校に入るまで過ごしましたが、HARUKOさん達が疎開先で味わった苦渋の経験を読んで、思い出すことが沢山ありました。
 
地方都市空襲一覧によれば、甲府空襲は、7月6日夜。B29が139機来襲とあります。仙台とほぼ同じ数のB29です。お互いに無事だったからこそ、14年後に会えたわけですね。

私と同世代の方

☆Hさん
私も逃げ回った記憶があります。私達が、かすかに記憶している最後の年代ですね。広島に住んでいましたが、原爆が落とされるなど知らなかったのに、両親の判断で、仙台の農学部裏の雨宮に戻ってきました。今の農学部は軍の施設になっていたので、焼夷弾が何度も落ち、真っ赤に燃えていた事を覚えています。わが家の前後にも落ちて、道路の真ん中に大きな穴があいていました。

仙台の「戦災復興記念館は、毎年、今頃になると、当時の写真を展示しています。10日は、「すいとん」を100円で出したそうです。

雨宮は、私が空襲に遭った家のすぐ近くですね。直撃されなかったとは、運がよいご一家だわ。更なる幸運は、広島から仙台に戻ったことですね。

左上の写真の説明には、「B29に搭載される各種爆弾を点検する隊員たち」とあります。こんなものがバラバラを落ちてくる中を、Hさんも私も逃げました。

☆Iさん
あの日は、恐いとも思わず、防空壕の中に寝かされていたと思います。私の家は仙台の南ですから、戦火を免れましたが、兄が「空が真っ赤だよ」と興奮していました。

父は、なぜか戦争には行かず、軍需工場で働いていました。終戦直後に腸閉塞で亡くなったのです。病院が遠かったので、母がリヤカーで運んでいったのを覚えています。しかも、盲腸と誤診されて、手遅れだったのですよ。戦後のどさくさですものねえ。父はまだ39歳でした。

両親の実家が農家なので、「白いごはん」はどうにか手に入っていましたよ。でも大根葉の入ったご飯がとても美味しかった!!

中心部から離れた地域は、ほとんど被災していませんね。高校で、空襲の話をしても、ほとんどの人は「覚えてない」と言ってました。被害がなかったからだと思うのです。夫の父親も、終戦後の誤診がもとで、亡くなりました。

★Jさん
出身地は、終戦直前に空襲にあった東北の都市です。祖父・父ともに医者だったので、私は医者の家のお坊ちゃまでした。女子供は、近郊の農家に疎開していたので、空襲の夜は、遠くから真っ赤になる市街地の空を眺めていました。あなたのように、焼夷弾の中を逃げた体験はありませんので、鮮烈な記憶はありません。ただ戦争は、狂気の沙汰なので当時を思い出す勇気は、ありません。

叔母のダンナが朝日新聞の従軍記者でしたが、フィリピンで戦死。叔母母子が実家に住むようになり、私の母にとっては小姑。複雑な家族構成だけが、嫌な思い出として残っています。

複数の家族が1つ屋根で暮らした例は、たくさんあったと思います。未亡人や焼け出された人は、どこにも行きようがなかったでしょうから。

☆Wさん
昭和11年生まれの主人は、高松で爆撃をうけ、焼夷弾のなかを家族5人で逃げたそうです。逃げ惑う途中で、両親と離れ離れになり、泣きじゃくる弟をなだめたこと、夜が明けてからやっと両親と会えたこと、家も全焼し、転々としています。小学3年生でもしっかりしていたことが、主人の自慢です。

その数ヶ月後には、アメリカ軍のチョコレートやガムにスゴイ!と感動し、それが後にアメリカにあこがれ商社マンとなったらしい。私達だと、当時の記憶も曖昧のこと多いですね。アメリカ軍チョコの記憶は、私にはないのですが、先日の高校同窓会では覚えている人もいましたし。

地方都市空襲一覧によれば、高松は7月3日夜。B29は130機来襲しています。戦前の鬼畜米英は、あっという間に、親愛なる国になってしまったのですね。疎開から仙台に戻って住んだ家のすぐそばに、進駐軍がいましたが、何も嫌なことはありませんでした。

☆Xさん
カルチャー仲間と話し合ったりするときにも、仙台空襲は幼くて何も覚えてない・・と、ほとんど聞き役に回っていました。それなのにHARUKOさんは、同い年なのに、たくさんの体験を語ることが出来る。これは生き方の構えが違うからだと思っているところです。

真っ暗な中を防空頭巾をかぶり、姉と私は祖母に手を引かれて土橋通りから北山を越えて逃げました。父母は爆弾が落とされたときに備えて、家に残ったそうです。祖母は道端に倒れている人がたくさんいるのを「見るんじゃないの」と言って、頭巾で目隠しをしながら私たちを引っ張って行ったと聞きました。

Iさんにも書きましたが、高校で空襲の話をしても、みんなピンとこないようでした。焼夷弾が燃え出すのを見ていた私には、忘れられない出来事ですが、やはり断片的にしか覚えていません。恐いとも思わなかったし。

私より年下の方

★Kさん
さすが体験者による語りにはド迫力がありますね。火の海を逃げまどうご一家の姿を「映像の20世紀」の1コマのように、思い浮かべている今の自分が申し訳なく思われます。「命を救った白いごはん」は字数の制限を受けながら、窮屈に書かれた文章とは思えない!

★Kさん
空襲で仙台は過去の遺産の全てを焼かれてしまったのですね。文明文化の大敵は言うまでもなく、愚かな戦争だということが、今更のように深く思われます。

山口県の片田舎のわが家にも裏山を堀り、防空壕なるものが準備されていましたが、入口に戸もなく、奥行きもそんなになく、気休めにしかならないものでした。戦後に、その防空壕は、サツマイモの貯蔵場として使っていました。

サツマイモの蒸し焼きでなく、人間の蒸し焼きだなんて、防空壕も悲惨ですね、戦後60年、風化してしまいそうな戦争の惨禍を語り伝えるのも、我々の務めです!

記録では、山口県で空襲に遭ったのは、徳山と下松です。私は、防空壕の中がどんな風になっていたか、記憶にありません。テレビなどで見る防空壕は、かなり大きいですが、誰が掘ったのでしょう。

★Lさん
私は盛岡で生まれ、小学校3年生の1月中旬まで盛岡で育ったこともあり、仙台空襲は、引っ越してきてから話を聞きました。盛岡は3月10日に空襲を受けましたが死者が3名という小規模なものでした。年齢的にみて、覚えている年頃ではなかったのですが、真夜中に裏庭の防空壕に連れられていった気がしています。

初任地の長岡市の空襲は8月1日、仙台より多い1,470名余の死者があったそうです、親兄弟、子供を亡くしたという話を多くの方から伺いました。日本海側で最大規模の空襲をうけたのは、山本五十六の出生地だからと聞いています。

3月10日というと、東京大空襲と同じ日ですね。地方都市の空襲さは、主に6月以降ですから、盛岡は、なんかのついでに落とされたのかもしれませんね。長岡で被災されたGさんの体験談が上にあります。

☆M さん
私は昭和20年8月7日に生まれました。これでも「戦中派」です。母の実家は、仙台市内の南町通りにありましたが、県北の三本木に田畑を持っており、母は横浜から疎開してきて、そこで私が産まれました。ノミ除けのため、桐のタンスの引き出しが、ベッド代わりだったということです。

南町通りはもちろん戦火に遭い、祖父母は戦後、不在地主対策のために三本木に移り住みました。父は従軍し腕に銃弾を受けて帰ってきました。父の片腕は十分曲げられない状態のまま、病を得て、今で言う治療ミスで39歳で亡くなりました。というわけで、仙台空襲は私にとっても他人事ではないのです。

上にあるIさんのお父さんも、治療ミスで39歳でお亡くなりになっています。当時は、そういう話はたくさんあったようです。私の足に少々ビッコが残ったのは、仕方ないですね。

★Nさん
以前、書いたように叔母親子の命日が近づき、お供えする「ずんだ餅」などの準備で、女房が親戚のおばちゃんたちと、電話でやりとりする声が聞こえます。

★Nさん
昨日、叔母親子の法要を滞りなく務め、改めて非戦の誓いをしました。「母が語る20世紀」は、あと数回は続くと思いますが、終了後にぜひ、冊子にしていただければと思います。母上の思い出を通して、まさしく日本の近・現代史が息づいているからです。

Mさんの叔母さんと1歳の赤ちゃんは、仙台空襲で命を落としました。私の母と同年齢の叔母さんです。そのときの赤ちゃんは、空襲さえなければ、還暦を過ぎています。毎年、親戚の方が、法要していることに感銘を受けました。ずんだ餅は、枝豆で作ったアンをまぶした餅。私も大好きですが、叔母様もお好きだったのでしょうね。

☆Oさん
悲惨な体験なのに、子供の目を通しているせいか、そんなに悲惨さが伝わってこないですね。高山は、空襲はなかったのですが、ビラがよく降ってきたと、親が言ってました。

ビラが降ってきた話はよく聞きます。降伏を呼びかけるビラだったのかしら。記録をみると、岐阜県では、6月26日と29日に、岐阜市がやられています。

☆Pさん
祖父母、父母、伯母に聞いていただけに、真に迫る文章でした。私は戦争を知らない世代ですが、身近な人に何度もきかされた話は、脳裏に焼き付くものなんですね。伯母(今85歳)は、大八車に荷物を積み、逃げ回ったとか。。母は今でも「白いご飯が食べられる幸せ」を口に出しています。異常な状況におかれたHARUKOさんの足骨折の痛さ。我が身に置き換えて、いたたまれなくなりました。

Oさんは仙台にご縁のある方。何度も聞いているうちに、脳裏に残ってしまったのですね。こうして次世代に伝えられれば、いいのですが。

☆Qさん
空襲の話すごいですねえ。戦後10年に生まれた私・・。今年戦後60年ということは・・。わっはっは、私も50歳になりました。こんな子供じみた50歳でいいのでしょうか?少し不安というかなんというか・・。

戦って亡くなった方より、一般人が多いなんて、戦慄が走ります。第二次世界大戦は、意味ある戦争だったのでしょうか。戦犯で処刑された人々の処理は、あれで正解だったのでしょうか。それをいつも疑問に思っています。人を処刑するのは簡単。でもその後ろにあるモノを処理できなかったからこそ、今でも戦争があるような気がしてなりません。そのことをしっかり子ども達に教えていくべきなのかな。

大戦のすぐ直後から、東西の冷戦がはじまり、アメリカとソ連の兵器開発競争がしのぎを削りました。こういう事実を知ると、つくづく人間は懲りない動物だと思います。

☆Rさん
今も住んでいる大田区の家は、「周りは焼けたのにこの一角だけ、運良く焼けなかった」と、繰り返し両親から聞きました。それ故に、今でも、明治時代の立雛、鼈甲の櫛、かんざし等、古いものが飾り棚の中に沢山残っています。

昨年、妻籠、馬籠に行きましたが、島崎藤村の’初恋の人’(ゆふさん)が、馬籠から、妻籠の脇本陣に嫁いで、そこで使っていた遺品が陳列されているのを見ました。なんと、鼈甲の櫛、食器、雛など、まさに我家に残っているものと同じ。明治の初期から中期のもの、と聞いていたけれど、本当なのだと納得。

家が焼けた、焼けない、家族が亡くなってしまった、運良く生き残った。理屈ではない何かが働いているのでしょうか。私は、経験していないけれど、明らかに悲劇を生む戦争が、何故止められないのでしょう?’力’の論理なのですよね。

「焼け残りし鼈甲の櫛終戦日」        「終戦の黙祷球児グラヴして」
「子を連れて大田川訪ふ広島忌」       「古壁に尋ね人書かれ原爆忌」

「母が語る20世紀」に書いたように、母は2度も災害にあっているので、由緒ある品物や手紙、写真が何もありません。明治期のモノが残っているとは羨ましいです。運もいいし。

★Sさん
「命救った白いごはん」名文ですね。私の父は昭和10年生まれですが、戦時中は、今の能美市の叔母の家に疎開していました。結局、金沢は空襲はありませんでしたが。

北陸では、福井も富山もやられています。米軍はあえて、古都・金沢を避けたのでしょうか?

☆Tさん
父母はもうこの世にいないので、よくわかりませんが、父は病気で戦地に行けなかったそうです。そして、戦後に、千住に越してきたと聞いています。

昭和20年2月、現在の千住橋戸町に、青果物と水産物を併設した中央卸売市場を開設。ところが、4月13日 開場後わずか62日目に戦災にあい、施設が全焼してしまったそうです。千住宿は、宿と市場が混在してして 江戸四宿では人口では最大規模。それが 丸焼けになってしまった。旧来の家並みが失われてしまったとのことです

「東京空襲一覧」を見ると、たしかに4月13日にB29が352機来襲しています。23時とのこと。千住の家並みが失われたのは、ほんとうに残念です。千住の写真が、なかったので、東京空襲に関する写真を2枚。

左下の写真には「東京空襲は富士山が目印だった。爆撃隊員も美しい富士山の姿が視界に飛び込むとホッとしたという」の説明がついています。B29の乗員が思わずシャッターを押したのでしょう。余裕しゃくしゃくですね。

右下の写真には、「3月10日の大空襲で焦土化した深川区(今の江東区)を視察する昭和天皇(昭和20年3月18日)」と、あります。感想のトップにあるAさんが、これと同じ写真が、日本の新聞(3月19日)に載っていると知らせて下さいました。AさんのHPに載っています。この新聞を見た国民は「早く戦争を止めよう。惨事を繰り返さないで」と言えなかったのでしょうか。この時に降伏していれば、沖縄戦も、広島、長崎も、もちろん地方都市の空襲はなかったはずです。


(2005年7月31日記   
8月4日・5日・14日追記)







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