母が語る20世紀

 24. 戦争終結と疎開

 7月10日の仙台空襲では、父の職場「化学教室」にも焼夷弾が落ちたが、助手や学生が消火にあたった。わが家を直撃した焼夷弾より小さかったので、素人の消火作業で事なきを得たようだ。数学や物理教室は、全焼した。父が物理の一室を借りて実験していたX線装置は、全滅したという。理科の教授・助教授の中で、家が全焼したのは父ひとりだった。家も実験室も全焼。空襲で死ななかったのは強運だという人もいるが、こうしてみると、父は、強運にはほど遠い。

 父の手記には、「焼け跡の整理は、小生1人があたった」とある。妹は乳飲み子、私は骨折で入院、兄や姉がなぜ手伝わなかったのか知らないが、「罹災者に、配給があります」と言われても、配給所の列に並ぶ暇がない。列に並ぶのは、焼けなかった人ばかりという無法地帯だった。

 住まいが全焼したからとて、転がり込む親戚は、仙台近辺にはいない。しばらくの間、大学のガラス工場合宿所を使わせてもらったが、いつまでも居るわけにはいかない。そうこうしているうちに、仙台北部の吉岡に疎開していた知人が、「隣の大衡村で、2階を貸してくれる人がいる」と知らせてくれた。

 家族6人は、わずかな荷物を馬車に積み、宮城県黒川郡大衡村へ引っ越した。大衡村は、今も60年前と同じ住所で、宮城県でただひとつの村である。仙台から北25キロにある。先月、仙台でレンタカーを借りて、大衡村まで行ってきた。市内が渋滞していたので、国道4号線で50分はかかったと思う。

 舗装道路を車で50分の距離は、ガタガタ道の馬車なら、何時間かかったのだろう。真夏の太陽が照らし、埃もたったはずだ。都落ちとはよく言ったものだ。左上は、『昭和史全記録-毎日新聞-』から借りた写真。説明に「馬力の復活(昭和20年9月21日 東京)」とある。東京でも馬車が走っていたぐらいだから、地方なら驚くにあたらない事だった。

 私は、60年前の8月15日の玉音放送をまったく記憶していないが、兄や姉が「家族みんなで行った」と話しているから、私も集合場所・大衡小学校の校庭にいたことになる。

 大衡村に行った時に、終戦の詔勅を聞いた大衡小学校にも寄ってみた。国民学校5年の兄と4年の姉が転入した学校だが、昭和48年に、同じ村の別の場所に移転している。元の場所には、石碑が立っているだけだった(右)。

 「正午に玉音放送があるから集まるように」のお達しがあったと聞いている。ラジオでの発表だから、自分の家で聞けばよいと思うが、ラジオのあるなしに関係なく、集合命令が下ったのだろうか。それとも、大衡村では、ラジオを持っている家が少なかったのだろうか。

 戦争の始まりを告げる「大本営発表」と同じく、終戦の詔書は、何度も何度も音声で聞いている。「何を言っているかさっぱり分からなかった」と、その場に居合わせた人の誰もが語るのは、ほんとうだろう。下の新聞に、詔書の全文が載っている。読めない漢字、意味がわからない漢字がたくさんある。ましてや音質の悪いスピーカーを通しているから、わかるはずがない。

 詔書の最初の3行だけ書き写す。

「朕深ク世界の大勢と帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク   朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 詔書にある「米英支蘇四國」とは、アメリカ・イギリス・中華民国・ソ連。詔書ばかりか、新聞にも意味がわからない漢語がある。題字の「渙發(かんぱつ)」は、「詔勅を広く天下に発布すること」、「恢弘(かいこう)」は、「事業などを大きくしておしひろめること」と広辞苑にある。




 この朝刊の日付-昭和20年8月15日-を見て驚いた。正午に重大発表があると言っておきながら、朝の新聞には、詔書が載っている。詔書の日付は8月14日だから、15日の朝刊に載るのは、今の感覚で言えば不思議はないが、ほとんどの人は新聞を読まなかったのだろうか。

 まわりに聞く人もいない。もやもやした気持ちを抱えていたら、リンク集にあるSさんのHP「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」に、次のような一文を見つけて、疑問が氷解した。夕刊と書いてないから、朝、配達されたとばかり思っていたが、この日は、玉音放送の後、夕方に配達されたのだった

 昭和館(東京の九段にあり、戦中戦後のくらしぶりを収集、保存している)に、8月15日の新聞が展示され、次のような説明がついていました。
この日の正午、戦争の終結が玉音放送によって国民に伝えられ、各地ではラジオの前に泣き崩れる人々の姿がありました。また、当時の新聞は夕刊が休止されており朝刊のみの発行でしたが、この日は特に放送の後に印刷・配布され、各家庭には夕方ごろの配達になったといいます。
 

 母は「お父さま(私の父のこと)は、短波放送をこっそり聞いていたから、負けることを知っていたのよ。具体的には私にも言わなかったけれど、『これから大変なことになるよ。でも良い世の中が来るよ』と言ってたわ」と、語っている。もしかしたら、大きな声では言えなくても、うすうす知っていた人は、大勢いたのかもしれない。

 大衡村では、2軒の家に世話になった。最初に間借りした家は「おあんちゃんが帰ってくるから、出てくれ」と言われて、同じ村の他の家の部屋を借りたのだが、私は最初の家での出来事をかなり覚えている。その家は当時と同じ場所にあるので、先月訪ねた時に外観を撮ってきたが、HPに載せるのは、はばかられる。

 母が「生涯でいちばんつらかったのは、大衡村での生活」と言っているからだ。その一家が、特別意地悪だったとは思いたくないが、疎開してきた私たちに、優しくなかったことはたしかだ。「20世紀4」で書いたように、母は、関東大震災でも、避難先の小学校で「避難民の子」と、いじめられた。

 一般的に「農村は、のんびりして生活しやすい。村人も素朴で優しい」と言われるが、母は「農民が素朴だなんて嘘っぱちよ。他人のうわさ話ばかりしてるし」と、若い時に話していたことがある。村人の多くは、人前でも平気でもんぺを下げて、庭の隅で用を足していた。母がそんなことできないと言うと「疎開は生意気だ!」と、なじられたという。疎開してきた人は、「疎開」とひとくくりに呼ばれていた。もちろん水道などない。井戸の釣瓶を汲み上げる時に、力のない母は、釣瓶を井戸の淵に置いてしまう。「そんなに弱腰でどうする。だから疎開は困る」という具合だ。「疎開」の行動は、奇異の目で見られ、うわさ話の対象になった。

 食糧難は戦後の方がひどく、米の配給も戦中より少なかった。左の新聞は、昭和20年10月28日の朝日新聞。都会生活者が飢餓線上に置かれている事に、手をこまねいている官僚への不満はあるが、法外な闇値と交換物資を要求する一部農民にも、不満がたかまっている・・という記事である。

 「妬ましい、羨ましい」という感情が私に芽生えたのは、最初に間借りした家でのことだ。大家の子ども達は、おやつに「おにぎり」を食べる。家の中で食べればいいものを、私の目の前、庭でかぶりつく。私たちがめったに口に出来ない「白いごはん」のおにぎりだ。

 そのことを母に、言わないはずがない。聞いたとて、なす術がない母は、どんなにか情けなかったろう。農村に疎開したから食料が豊富にある、と思うのは間違いだ。配給で足りない分を補おうにも、金を出しても譲ってもらえず、あからさまに、着物や宝石を要求された。

 防空壕に入れておいた、衣類の端が焼けて、使い物にならなかったことは「20世紀22」で書いた。交換してもらおうにも、着物がないのだ。宝石もない。戦時中に「金属や宝石を供出するように」と命令があったときに、婚約指輪のダイヤ、結婚指輪のプラチナ、金時計、銀の茶托、火鉢の中貼りの銅までも供出した。

 戦後、同じカラットのダイヤの値段を見て、小さな家が買えるほどだと知り、悔しくてならなかったという。羽振りの良い祖父が買ってくれた指輪なので、高かったのだろう。母は「もし今度戦争があっても、絶対に供出しない」と、私が高校生の頃に、話していたことがある。母ほどバカ正直に、すべてを供出した人は珍しかったらしい。

 かろうじて、野菜を恵んでもらえたのは、母が草取りなど農作業を手伝ったからだ。田植えは出来ないので、苗代を畦に運んだり、稲刈りの後始末を手伝った。便所の汲み取りもやった。それも手順が悪いと、罵られたという。

 「20世紀13」で書いたように、母の新婚生活は、当時としてはモダンな同潤会アパートで始まった。水洗便所や電話がある生活をしていたのに、その12年後には、庭での用足しを強要されたり、便所のくみ取りもせねばならなかった。笑い話になるほどのこの落差を、母は健気に切り抜けた。

 「このときの生活がまったく無駄ではないのよ。大衡の生活がなかったら、私は鼻持ちならない人間になっていたと思う」と母は言っている。今、私の家で、粗末な生活に馴染み、デイサービスのスタッフにも感謝の言葉を忘れず謙虚なのは、こういう経験があればこそだ。

 父は仙台で仕事をしているので、週末しか帰って来なかった。今なら通えない距離ではないが、当時の交通事情では無理だ。教官に与えられる一室の一画にベッドを作って、そこに寝泊まりしていた。こんな生活は、昭和24年秋に、一家が仙台に戻るまで、約4年間も続いた。

 大衡村での生活がしばらく経ったころに、大学の先生が疎開していることを聞きつけ、旧制二高を出た村の有力者が、顔を出すようになった。その途端、村人の態度が少し変わったという。母にすれば、こういう豹変も嫌なことだった。

 よそ者扱いされていたにもかかわらず、父は、ユネスコから映写機やフィルムを借りて、村で映画会を何度も開いた。スクリーンは、シーツを使ったので、風でときどき揺れた。「ポパイ」などの漫画や、アメリカの豊かな家庭生活や風景を写した映画だった。

 戦後すぐに、敵国アメリカの映画を借りてきた父も父だが、大勢の村人が拍手喝采して喜んだ事は、アメリカの占領政策がうまくいったひとつの証だと思う。母は「総天然色だったので、とってもきれいだったのよ。こんな映画を作る国に勝てるわけないと思ったわ」と話している。私は映画の内容は覚えていないが、きびきびと映写機を操作している父を誇らしく感じていた。

 この話を、ボランティアで映画を上映している友人に話すと、「それは、ナトコのことね」の答えが返ってきた。ナトコ(Natoko)は映写機の名前だが、占領軍アメリカは、日本の民主化を視聴覚教育で進めようと、「ナトコ映写機」の扱い方を指導して、免許証を与えた。15分ほどの短い16ミリフィルムが、4000種類もあったという。映画もテレビもなく、ラジオすら娯楽色が少ない終戦直後に、アメリカはいとも容易く、日本の大衆の心をつかんだことになる。

 仙台に戻って10数年後に、疎開先だった大衡村を母と訪ねたことがある。その時に、大衡で唯一訪ねたお宅は、菅野さんという家だ。いろいろ関わりがあったうえに、親切にしてもらったこともあり、付き合いが続いていたからだ。

 そこは、画家・菅野廉さんの実家でもあり、東京で焼け出された廉さんが疎開していた。父母は、東京暮らしだったご夫婦とも気があったという。右は、主に菅野廉さんの作品を展示している「大衡村ふるさと美術館」。森林公園「昭和万葉の森」に隣接し、素晴らしいロケーションに建っている。

 間借りしていた家と菅野家は、徒歩40分も離れている。歩くしかない頃に、どうやって行き来したものやら。姉が「菅野さんの家に行ったら、どんどんご馳走が出るので、食べ過ぎて気持ちが悪くなった」と話しているほど、良くしてくれたらしい。ひもじかったことは根に持っている私だが、食べ過ぎた事は覚えていない。

 私も先月、菅野さんの家(左)を突然訪ねた。私より1歳若い主(あるじ)は、当時を覚えていなかったが、奥様ともども歓待してくださった。

 実は、彼の妹と私は、同じ大学で学び、サークルが同じだった。4学年後輩なので、学生時代に接点はなかったが、サークルの集まりで、この偶然がわかり、飛び上がるほど驚いた。今では、毎月会うほど仲良くしている。(2005年8月7日 記)



 たった1年間の母の体験を聞き書きして、それを文章化したので、公平性に欠けるなという忸怩たる思いはあった。住む所がない私たちを受け入れてくれた村を、悪く書きすぎたかと、反省もしていた。そんなときに、つぎのような感想が寄せられた。書き足りなかった部分を補足してくれたことに感謝したい。狂気の混乱にあった時代だったのだ。(8月10日 追記)

 田舎にもいろいろな人はいると思うけどそんな酷い人ばかりではないですよ。そんな人は珍しいと思います。まあ確かに仲間意識は強いかもしれないですね。私たちにすれば都会から来た人のほうが信じられないようなことをする人が多いと思います。虐げられてきた農民の歴史の中で終戦前後の狂気のような混乱の中で立場が逆転したと錯覚する人もあったかもしれませんが、それも狂気ですよね。農民の立場を弁護してみました 。

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