母が語る20世紀

 25. 大衡村から吉岡町へ

 大衡村での生活は、1年後に隣の吉岡町(現在は黒川郡大和町吉岡)に転居したことで終わった。小学生だった兄が、その時期をはっきり覚えている。兄は、小学校5年生の夏に大衡国民学校に転入し、小学校6年の夏休み明け(昭和21年)に、吉岡国民学校に転校したという。

 終戦1年後も、食糧難はきびしく「ギブミーキャンディー」の時代が続いた。右写真は「昭和史全記録-毎日新聞-」から借りたものだが、吉岡にも進駐軍が来た。以前から陸軍の演習場があったからだ。今でも自衛隊の駐屯地と、王城原という演習場がある。

 気位の高い母から「そんなもの貰うんじゃありません」としかられた私は、遠巻きに見ていたような気がする。

 遠巻きに見ていた切ない思いは、紙芝居にもつながる。母は「紙芝居なんか見るもんじゃりません」と、お金をくれなかった。駄菓子を買わないと見ることが出来ないので、端っこで、おじさんの語りに聞き入っていた。家が貧乏だからお金をくれないと思いこんでいたが、母も紙芝居を見せてもらえなかったらしい。そのかわり母は、本物の芝居を見ている。お育ちがまったく違うのに、一方だけ押しつけられた私は、たまったものではない。こういうギャップは他にもあったが、反抗するには幼すぎた。そのせいか、いじけた小学生だったような気がする。

 「お育ち」で思い出したが、母は吉岡小学校から代用教員を頼まれた。「女学校を出ているなら出来るだろう」と、話がきたという。母は専攻科に進んでいない。専攻科を出ていれば問題はないが、「資格もないのに教えてはいけない」と、父が許さなかった。戦前は「良家の子女は、学問はほどほどに」という雰囲気があり、働く女性に冷たかったと聞いている。

 これ以後、母は家計を助けようにも、稼ぐ手段は、何も身につけていないことに気付き、悔しかったという。母の習い事は、6歳の6月の長唄にはじまる。銀座や浅草のホールで発表会も開いた。もちろん華道の先生も家に来てもらった。絵も一流画家に習っていた。こうした習い事は、母が好きでなかったこともあり、後に、なんの役にもたたなかったのである。お嬢様が、ただの人に転落すると、とんだ目にあうものだ。

 大衡村での2ヶ所の住まいは、玄関もトイレも台所も共同の間借り生活だった。そんなときに、隣町の吉岡に、貸家が見つかった。1軒家を半分に分けて2家族が住んだが、入口が別だったので、一応は独立家屋だ。1軒を分けあって住んだHさん一家とは、子供同士も仲良くしていた。兄は、同い年だったHさんの長男と、今でも交流している。

 疎開地めぐりをしたときに、吉岡の家(左)を、撮ってきた。茅葺きの家は、とうに建て替えられ、Hさんも他に家を建て、ここに住んでいなかった。でも、坂や木は同じで、雰囲気は変わっていなかった。

 「吉岡に移ったときは、本当に嬉しかったのよ。自由に出入りできるドアがあったから」と、母は語る。藁葺きの、今にも傾きそうな家は、子供でも、粗末に感じた。そんな家を、母が喜んだのだ。

 いかにボロ家だったかを示す逸話がある。家庭訪問で訪れた先生が、私の家を案内してきた同級生に「大学の先生がこんなボロ屋に住んでいるの!」と思わず、つぶやいたという。彼女が「先生がそんなこと言ってたよ」と話した日のことは、鮮やかに覚えている。その時に味わった思いは、50年以上経た今も消えない。

 ボロ家で撮った写真は、ごく最近まで保存してあったが、晩年の母の2度にわたる引越や改装のときに、間違って棄てられてしまった。父には、火の車の台所も考えず、高いカメラを買ってしまうアンバランスな一面があり、吉岡での写真は何枚もあったのだ。兄・姉・妹に「『20世紀』に載せる吉岡の写真が欲しいんだけど持ってない?」と呼びかけたが、兄がわずか1枚(下の写真)送ってきだけだった。



 妹の年齢や服装から察するに、昭和22年か23年の夏に撮ったものだろう。粗末な手作りの洋服を着て、下駄をはいている母は、今までにこのシリーズに登場した取り澄ました顔ではなく、嬉しそうに笑っている。貧乏だが幸せそうな母が、ここにいる。

 食糧難を補うために、山羊やニワトリを飼っていた。写真の山羊には、シロとチロという名前までつけて、みんなで可愛がっていた。競うように散歩に連れて行き、乳しぼりもした。ところが、突然シロとチロが死んでしまった。毒草を食べたらしい。私と妹は、シロとチロの遺体を前にして、いつまでも大泣きしていた。父が「そんなに泣くなら、もう動物は飼わないぞ!いい加減にしろ!」の怒鳴り声まで耳に残っている。

 山羊の写真のバックは「つつみ」と呼ばれる沼で、お盆のときに灯籠流しもしていた。借りていた家の真ん前にある。

 左は、先日写してきた「つつみ」。山羊と一緒に撮った55年前と、まったく同じ光景が広がっていた。

 「つつみ」の対岸に、中興寺(右上)という寺があり、お坊さんの奥さんと母は、頻繁に行き来するほど仲良くしていた。そんな縁もあってか、中興寺の一室を借りて、父は吉岡のお嬢さんたちに、茶道を教えていた。着物姿の数人が、日曜に家の前を通って、寺に通う姿を見ている。正式な資格などないから、月謝はもらわなかったという。土曜の夜から月曜の朝までしか吉岡にいないのに、映画会、お茶の先生、町長選挙の応援演説など、疎開地での父は、生き生きしていたような気がする。

 仙台に帰ってからの父が、地域活動をした記憶はない。なぜ大衡や吉岡のために尽くしたのか、聞いておけばよかった。母に言わせれば「田舎のために、何か貢献したかったんじゃないかしら」。このころの父は、子供の教育には飽きたのか、兄や姉にやった暗算の訓練を、私にはしてくれなかった。子供より地域という姿勢が、面白い。

 中興寺の奥さんが、杉並区の疎開児童を受け入れて、気を遣った話は、母から聞いている。疎開というと、都会から来た子の切ない証言が多いが、受け入れる側にも苦労はあったようだ。吉岡で、もうひとつ、疎開児童を預かった寺があった。2つの寺で生活していた学童達と吉岡小学校の交流が続いているという話を、先日、吉岡小学校の先生から伺った。
 
 疎開地めぐりで、まっさきに訪ねたのは小学校だ。場所は同じだが、校舎は建て替えられている。二宮尊徳像(左)はそのままだというが、校舎の前にあった像は、校庭の隅に追いやられている。でも、木々に囲まれた尊徳さんは幸せそうに見える。

 「私は3年生までここにお世話になっていたのですが、当時の写真はありませんか」と教頭先生に頼んでみた。急な訪問だったので、欲しい写真は見つからなかったが、私より2歳下の事務員が「すぐそばに、同い年の人がいるから呼んであげます」となった。

 私は当時の同級生と誰も付き合いがない。仙台に引っ越してからしばらくは手紙の交換をしたかもしれないが、返事がなければそのままになってしまう。案の定、来てくれた方は私を覚えていないし、私も覚えていない。クラスが違ったのだろう。

 でもそんなことお構いなしに、「東京でも同期会をやっているんですよ」とお台場で撮った集合写真を持ってきてくれた。「今度お知らせしますから、ぜひ来てください」と温かく接してくれた。

 私の小学校生活は、いじけて暗いものだった。空襲の時に骨折した足は完治せず、びっこだった。小学校2年の時に、結核で休学している。どのぐらい休んだのか覚えていないが、ボロ家の片隅で寝ていた時に、担任が様子を見に来てくれたことがあった。同級生にくらべ、服装も家もみすぼらしい。

 誇らしい場面は、何も浮かんでこないのだった。ところが、小学校3年生のときの私が、「非常に目立つ子だった」と、証言する人が現れた。彼女は今は宮城県の北部に住んでいるが、高校3年時の同級生だ。同じ高校に入ったときに、母から「吉岡の小学校で一緒だったKさんよ」と言われた。彼女は、吉岡から仙台まで通学していた。

 高校時代に、小学生時代の話をしたわけではない。今年の5月に高校のクラス会があり、仙台、吉岡、大衡を通って、志津川までマイクロバスを走らせた。吉岡を通った時に「治ちゃんの家はあの辺りだったね」と、彼女が話し出し、みんなの前で私の小学3年当時を暴露した。

 「何をしても目立ったのよ。図画の時間に『木の葉を拾ってきて作品を仕上げなさい』と言われたけれど、みんながモタモタしていたのに、治ちゃんは、銀杏の葉を真ん中において、ハサミで切ったりして、さっさと仕上げて、みんなをびっくりさせた」と。私はまったく覚えていないことを、彼女は事細かに再現してくれた。自分が褒められて嬉しかったというより、私の小学生時代が、必ずしも暗かったわけではないことを知り、ホッとした。(2005年8月24日 記)

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