母が語る20世紀

  26.  仙台で新生活

 湯川博士がノーベル賞を受賞して日本中が沸き立っていた昭和24年の秋に、約4年間の疎開生活に終止符を打った。やっと仙台に戻ることが出来た。

 その前に、もう少し、吉岡での思い出を書いておきたい。吉岡での住まいは、大家に気を遣わずにすんだが、食糧難は、大衡時代と何も変わらない。畑の肥料にするために、兄と姉が肥え桶をかついでいた姿を覚えている。中学1、2年の姉と兄が、そんな手伝いをしていた。

 私はというと、結核患者ということもあり、手伝いから除外されていた。大人の邪魔をしなければ、何をしてもいい身分だった。

 そのせいか、仙台の父の住まいに、何度も行っている。なかでも、天皇陛下が巡幸なさった日のことは、よく覚えている。童話の王子さま、王女さまを夢見る少女だったので、天皇巡幸の瞬間を、ワクワクして待っていた。王冠を被り着飾った王さまが、現れるものと期待していたのに、黒塗りの車は目の前をスーと通り抜け、顔もよく見えなかった。「なあんだ〜」という気持ちだけが残った。

 左の写真(「昭和史全記録」-毎日新聞社-より)には、「昭和21(1946)年2月19日の神奈川巡幸中の天皇」と、説明がついている。「これを皮切りに、全国へ足を延ばし、翌年も近畿、東北・・と精力的に回った」と続く。この記事からすると、仙台にいらしたのは、昭和22年のことだ。

 「背広にソフト帽姿で『人間天皇』を印象づけた」とも書いてある。私が思い描いていた王さまらしい服装は、敢えて避けたのだった。

 田舎の小学校には、田植え休みがあった。母はよその田を手伝っていたが、私には、することがない。田植え休みと、父の東京行きが重なった時に、東京に連れていってもらった。上野動物園や祖父母の家での写真が残っている。父がペットみたいに連れ歩くには、小学校低学年の私は、ちょうど良い年齢だったのだろう。

 父の仙台の住まいは、大学の研究室の中にあった。今ならこんな事が許される筈がないが、当時の住宅事情だからこそ、大目に見られたのだろう。

 父が宮城県の佐々木知事に会ったときに「研究室に寝泊まりしている」という話になった。「それは不便だろう。秋に川内と東仙台に県営住宅が完成するから、好きな所に入れてやる」となった。「母が語る20世紀」を書くにあたり、父の「70余年を顧みて」を熟読して、不正入居だったことを知った。思い起こすと、隣の家の主は、県立高校の教頭をなさっていた。不正入居は、かなりあったのかもしれない。

 こうして私達は、川内三十人町の県営住宅28号に入ることになった。いつの頃か、払い下げがあり、晴れて自分の家になった。その後、家を建て直し、結局、父は死ぬまでの45年間を川内で過ごした。母も私の家に来るまでの46年間を、この家に住み続けた。

 県営住宅は2部屋しかない粗末な家だったが、土地は100坪あった。その土地で、ニワトリを飼ったり、畑ではトマトやスイートピーも栽培していた。当時の仙台では、トマトやスイートピーの露地栽培は珍しく、訪ねてくる人は、感心していた。

 高台にあったので、仙台市内がまるで箱庭のようにチマチマと見えた。お客さんは、県営住宅を褒めるわけにはいかず、景色をしきりに褒めていた。高見の見物とはよく言ったもので、目の前を流れる広瀬川の堤防が決壊して、家ごと流される光景も見ていた。ジェーン台風、キャサリーン台風の頃のことだ。火事の燃え広がりも、家族全員で眺めていた。こんな野次馬根性丸出しは、自慢できることではないが、川内の家での家族模様のひとつだ。

 湯川博士のノーベル賞受賞は、仙台市立八幡小学校に初登校して数日後に、クラスの男の子が話していた。私が知らないことをしゃべっている男の子をまぶしく、オドオドしながら眺めていた。数ヶ月しか在校していないが、八幡小というと、ノーベル賞のニュースを思い出し、仙台へ戻った日がわかるのだ。

 兄と姉は、空襲まで附属小にいたので、附属中学校の3年生と2年生に転入できた。私は小学校4年の春に試験があり、附属小に転入した。11人が受けて1人しか入れないことになっていたが、結局は3人が合格。その3人は、大学教授の娘と教育委員会勤務の息子。父が「こりゃ、落とすわけにはいかなかったんだよ」と言っていた。県営住宅と同じく、不正入学だったかもしれない。付属小時代以降は、細部も思い出せるが、私の自分史のようになってしまう。「母が語る20世紀」の主旨ではないので、このへんでやめておく。

 川内の生活で家族全員に関係あるといえば、すぐ近くに米軍キャンプ(駐屯地)があったことだ。ほかにも苦竹や榴ヶ岡にキャンプがあったが、川内は、陸軍の第2師団の跡地で、297万平方キロという広大なものだった。

 左写真は、川内キャンプの一部だが、仙台市民図書館の嘉藤さんに、またもや送っていただいた。「目で見る仙台の歴史」-1989年-からの抜粋。


 広大なキャンプ内には体育館、運動場、プール、ボーリング場、クラブハウスもあり、兵士達がのびのび遊ぶ姿を目にしている。アメリカ人はなんて陽気なんだろうと思った。鬼畜米英のかけらもなかった。陽気な上に、彼らはカッコ良かった。普通に歩いている時でも足並みが揃っていて、姿勢がいい。子どもながら、ほれぼれしてしまった。

 チャペル、学校、かまぼこ型の兵舎、家族の宿舎も建っていた。将校の家は、映画の中のように立派で、特にクリスマスの飾りを見ては、ため息をついていた。雪が積もっていても、スチームが下を通っている道路は溶けていたし、真冬でも半袖のセーターで自動車の乗り降りをする人を見た。すきま風を目張りで防いでいた我が家と比べ、別世界が広がっていた。

 なぜ私がこんなことを知っているか。同級生のほとんどは、知らなかったと言っている。キャンプ内は立ち入り禁止で、治外法権の場所だったが、近所に住む人には、自由に出入りできるパスが支給されていたのだ。

 アメリカ人の生活に興味津々だった私は、小学校の帰りに、こちらを回った。遠くなるのだが、そんなことは、お構いなしだ。母は「治子の帰りが遅いので、何度も心配したことがある」と語っている。アメリカ人の家に上がり込んで、クッキーやコーラをご馳走になったことさえある。羨ましい生活を垣間見ながら、さまざまな人間模様を学んだような気がする。

 米軍が完全に引き揚げたのは、昭和32(1957年)11月。その跡地に、東北大学教養部が移転してきた。しばらくは、建物のほとんどが、そのまま校舎に使われ、チャペルは大講義室になった。今は、米軍がいたころの面影は一切ない。
 
 この当時のことになると、母から聞かなくても私が覚えているので、母が主人公だったことを忘れてしまう。私が想像するに、左の写真を撮った昭和28年頃の母は、戦後の苦労からも解放され、ほっとしていたような気がする。兄が大学生、姉が高校生、私が中学生、妹が小学生。4人の子どもが「大高中小」と揃ったので、父が特に気に入っている写真だ。

 これ以降の母は、いろいろな社交の集まりに顔を出している。なかでも「作楽会仙台支部」でのお付き合いは、母の交際範囲を広くしていた。東京の女学校の同窓会だが、地方ゆえに、年代の違う方との交流もあり、知事夫人、頭取夫人、社長夫人など、普通なら接することが出来ない奥様がいらしたからだ。母の年代の女性にとって、女学校の存在は、想像以上に大きい。

 父母の金婚式の祝いで集まった時の写真(下)で「母が語る20世紀」を締めくくりたい。昭和8年に結婚した父母の50年後の姿だ。2人で始まった安積家は、50年後には、総勢20人に増えている。この写真から22年が過ぎた今、鬼籍に入ったのは父だけだ。兄弟や甥や姪の詳細は、プライバシーにかかわるので書けないが、全員が、まあまあの社会生活を送っている。働かない若者もいる昨今だが、甥姪の全員が、働いている。女性も、専業主婦はひとりもいない。甥姪の祖母にあたる「母が語る20世紀」の「母」が、専業主婦だったことを思うと、感慨深い。

 今の母はといえば、聞き書きを始めた頃に比べ、認知症が少々進んでいるが、以前、遊び回っていた頃の記憶は鮮明である。平和だった頃のイラクにも行っている。イラクの惨劇がテレビ画面に出るたびに「私が行ったころは、ひとりで散歩しても、なんでもなかったわよ」と繰り返す。ニューオーリンズの洪水の時も「ジャズが盛んな所ね。みんなで行ったわねえ」と、なつかしんでいた。兄がニューオーリンズ近くのバトンルージュの大学に留学していた。先日のバリ島のテロの時も「ここは、面白かったわ。ケチャというダンスもあってね。長いこと滞在していても、なんにも危ないことはなかったのに」と語っている。

 イラクとニューオーリンズとバリ島は一例にすぎないが、若いときに、たくさん思い出を作っておくことは、脳を刺激する上で、非常に大事ではないかと思う。






















 これで最終回としたいところだが、シリーズ連載中に、さまざまな反応があった。それを27回に書いて、終わりにするつもりだ。(2005年10月10日 記)

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