母が語る20世紀

 27. おわりに

 「母が語る20世紀」を書き始めたのは、去年の5月。せいぜい10回ぐらいを考えていたが、話を聞いているうちに、かくも長くなってしまった。90歳直前だった母は、91歳と6ヶ月になった。

 連載中に皆さんから「お母様、お喜びでしょう」と言われた。答えに窮してしまうのは、母の脳が、以前のようにクリアであったなら、自分の写真や思い出話をネットで配信することを、喜ぶとは思えないからだ。親戚に害が及ぶことは記していないので、怒らないだろうとは思うが。

 母からの聞き書きは、その場にいないので臨場感に欠ける。それを補うには、現場に行くしかないと考えた私は、あちこちに足を運んだ。しかし、このシリーズで取り上げた大部分は、戦前の話。60年以上前の裏付けをとるのは、容易ではなかった。

 母にゆかりのある家や建物で、当時のまま残っているのは、1つもない。卒業した小学校は、統廃合のため平成3年に閉校、女学校は、母の卒業直後に他の地に移転している。新婚の頃に住んだ同潤会アパートは、最近、高層ビルに建て替えられた。いちばん長く住んだ仙台・川内の家すら、取り壊してしまった。

 ことほど左様に、せっかく足を運んでも、当時の面影を探すのは、難しかった。本文で書いたように、安積家の写真は、関東大震災・仙台空襲や晩年の引越時の手違いで無くなってしまった。伯母(加藤家を継いだ母の姉)が大事に保存しておいてくれた写真に、どれだけ助けられたことか。

 他は、新聞・同窓会会報・郷土史・20世紀の記録で補った。特に金沢や仙台の図書館には、大変世話になった。心許ない資料集めだったが、話の裏付けが取れたときは、嬉しかった。謎解きをしている楽しさがあった。この楽しさがあったからこそ、私は張り切っていたように思う。

 中高生になった頃、何気ない友人との会話から「私の家は、ちょっと変わっているのではないか」と感じるようになった。仏壇もない、神棚もない、墓参りもしない、「夜に爪を切ってはいけない」など格言めいた話は一切出ない、大安や仏滅を気にしない、というより日常会話に言葉すら出ない、厄年なる言葉を知ったのは、30歳を過ぎてからだった。墓参りをしなかったのは、母方・父方双方の墓が、東京の多磨墓地にあるからなのだが、父が出張で上京しても、墓参りをしてきたという話は聞かなかった。

 「ちょっと変わった家系だな」の思いは、結婚後は忘れていたが、20世紀を書いている中で、「これだ!」と思い当たることにぶつかった。これこそが、最大の謎解きだった。私の祖父や曾祖父が、ちょっと変わった家系のDNAを持っていたような気がする。2人の一生には、因習の匂いがまったくない。詳しくは、加藤和平加藤英重の項をお読みいただきたい。父の家系にも、同じようなDNAを感じるが、今となっては調べようがない。

 連載中に、まったく存じ上げない方から、多くの感想が寄せられた。そのいくつかをあげてみる。母が卒業した小学校・鞆絵小の同窓生4人もの方から、掲示板にお便りをいただいた。ひとりは、つい昨日の書き込みで、母子とも鞆絵小の卒業生だと言い、間違いを正してくださった。

 なかでも同窓会の世話役をしているYさんとは、何度もDMを交わした。Yさんに、母の同級生を探してもらったが、残念ながら、同級生にはお目にかかっていない。10年早く書いていたならば、なんとかなったかもしれないが、ネットが今ほど行き渡っていなかった。このHPが同窓生の目に留まることは、なかったろう。

 お茶の水女学校の同窓生からは、1人だけ、書き込みがあった。若い芸術家の方だ。母に近い学年の方からの連絡が欲しいが、無理な望みかもしれない。

 「ちひろ美術館」の館長である松本由利子さんからもメールをいただいた。由利子さんの夫は、画家・岩崎ちひろさんと、共産党前衆議院議員・松本善明氏の息子さんである。「岡田三郎助を検索していて、このHPにきました。夢中で読みました」と。たまたま、岡田三郎助の項には、岩崎ちひろさん、嵯峨浩(満州皇帝弟・愛新覚羅溥傑氏と結婚)さんのことを書いている。

 ちひろさんは、結婚後、満州に渡った。そのときに、満州国皇帝の義妹・嵯峨浩さんとは、岡田三郎助先生の弟子ということで、接点があったのではないかと、由利子さんは推測する。ヒゲタ醤油のパッケージデザインの仕事を、ちひろさんがしていた。浩さんの母方の祖父は、ヒゲタ醤油の創業者だ。この偶然に、由利子さんは、びっくりしたという。「はっきり裏付けがとれたら連絡します」ということだったが、まだ連絡はない。いずれにしろ、母にも私にも関係ないことではあるが、繋がりをたどる作業は面白い。

 父の情報をお寄せくださった方もいる。「日本曹達を検索して、たどりつきました。お父上は昭和17年に、東北大の助教授でしたか。父のアルバムに写っているのです」。若い父の写真を持っている方が、DMをくださったのは、嬉しかった。

 「毎日新聞科学部のN記者です。母が語る20世紀を読みました。アインシュタイン来日時に会ったことがある人を探しています。ぜひ房子さんにお会いしたい」というメールがあったのは、およそ1年前。数度のメールのやりとり後、わが家に来てもらうことになった。その時の写真が右上の2枚である。上はN記者から取材を受けている母。下は、カメラマンの注文に応えている母。カメラマンは、高級デジカメで、何枚も写したあとに、早々と引き揚げたが、N記者は、2時間以上も話していった。「HPにこの写真を載せるかもしれませんが、いいですね」と、了解をとっておいた。



































 この日の取材が日の目を見たのは、今年の正月。2005年1月1日の朝刊の社会面に、かなり大きく載った(上)。2005年は、「世界物理年」。アインシュタインが特殊相対性理論など3つの論文を発表して、奇跡の年と言われた1905年から100年になる。毎日新聞だけでなく、朝日新聞も読売新聞も、正月にアインシュタインの特集を組んだのは、このためだった。

 新聞にこんなに大きく載ってしまったが、実は、アインシュタインが鞆絵小を訪問したという正式な記録は、とうとう見つからなかった。小さい頃から何度も聞かされたことなので、母がウソを言っているとは思えない。N記者も母と接触して、事実だと確信したうえで、記事にしたのだろう。数日後、N記者から「小学生とアインシュタインのエピソードは面白かった・・の反応が来ました」のメールが入った。

 東京・神田にある学士会館のKさんからメールがあったのは、今年の2月。「学士会の会報で、学士会館で結婚式を挙げた方を取り上げることにしました。母が語る20世紀で、ご両親が学士会館で結婚式を挙げたことを知りました。ぜひお伺いして話を聞きたい」。

 毎日新聞のN記者同様、Kさんにわが家に来てもらった。母はひとりで接客出来ないので、私も同席。結婚式の写真を見ながら「この衣装は、貸衣装だったのですか」とKさんが質問した。「いいえ。Hという三越の番頭が家に来て、ほかの衣装も見繕ってくれたんですよ」と、母は答えていた。

 私は番頭が日参していた話など初めて聞いた。それにしても、数分前の出来事を忘れることもある母が、70年前の番頭の名前を覚えているのは、「脳のふしぎ」としか言いようがない。下のコピーは、そのときの記事。


 

 「相馬黒光を検索していて、このHPを見つけました。仙台にご縁のある方なのですね」と、仙台在住の「伊達の五郎」さんからメールをいただいた。相馬黒光など取り上げてないなと、一瞬不審に思ったが、中村不折の項に、ちょっと書いていた。五郎さんには、これ以後、古今の仙台情報を寄せてもらっている。

 「HPの検索機能は、たいしたものだ。あやふやな情報は書かないようにしなければ」と、「母が語る20世紀」を終わるにあたって、つくづく思った次第である。(完) (2005年11月22日 記)

感想をお寄せ下さいね→
母が語る20世紀 1へ
ホームへ