4. 関東大震災

 1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分。あまりにも有名なこの数字は、後に「関東大震災」と名付けられた大揺れの瞬間だ。

 関東の1府6県におよんだ被害は、死者・行方不明者10万4600人、家屋の全半壊戸数17万5000、焼失戸数は38万1000。日本の地震観測史上、最大かつ最悪の災害である。

 右新聞は『重要紙面の75年』(昭和29年・朝日新聞発行)のコピー。東京では翌日もまだ火の勢いがおさまらず、新聞発行どころではなかったと聞いている。大阪だから、9月2日に発行できたのだろう。

 アインシュタインが鞆絵小に来校したのは、大震災の9ヶ月前。母は同じ小学校の3年生。初登校日だったので、昼前には家に帰っていた。

 府立第5高女に通っていた伯母は、帰宅したとたん地震に見舞われた。その伯母が機転をきかして大きなやかんに水を汲んだ。間もなく断水したので、それは命水になり、伯母の手柄は、のちのちまで語られることになった。

 倒壊は免れたとはいえ、大事にしていたバッグをとりに2階に行こうとしたが、階段がずれていた。到底上がれる状態ではなかった。いずれにしろ、この家は翌未明に猛火に襲われ、跡形もなくなってしまったのである。

 三越に勤めていた祖父は「すぐは帰れない。使いの者に食料品を持たせるから、愛宕山に避難しなさい」と電話をかけてきた。店員が、ジャムパンなどたくさん届けてくれたという。地震直後は、電話も通じたらしい。電話をかけてきた・・と聞いて驚いた。私が育った家に電話が入ったのは、1950年代の終わりころ。なのに、母は1920年代に、電話を使っている。

 ありったけの荷物をまとめて、愛宕山に向かった。書生さんが、愛宕山頂の桜の木に荷物をくくりつけてくれたが、結局その荷物も桜の木も焼けてしまい、数日後に行ってみると、中身が飛び出した缶詰だけが転がっていた。

 愛宕山に避難している時にスイカを食べようとしたが、包丁がない。すると、「こんな時ですからお許し下さい」と、隣家の海軍の軍人が刀を抜いた。光る軍刀でスイカを切り分けた光景を、今でも思い出すと言う。

 当初は、暢気にスイカを食べる余裕もあり、三越や白木屋から急に火を噴き出す光景も眺めていた。

 上は、日本橋、魚河岸、三越が猛火に包まれている彩色石版画。『日本の歴史』(中央公論社・昭和42年発行)を借用した。母は、この光景を愛宕山から眺めていたことになる。

 この混乱の中を日本橋から愛宕山まで帰ってきた祖父も、九死に一生を得ている。鍛冶橋を渡り終わったとたんに、橋はくずれ落ちた。ちょっと遅かったら、命はなかったにちがいない。

 地震に見舞われた時の住まいは、芝区西ノ久保桜川町。アインシュタインの項で、母が正確な住所を覚えていないと嘆いたが、父が残した簡単な自分史「70余年を顧みて」の中に、記載してあった。

 左は、江戸東京博物館の床に印刷されている明治時代の東京市地図。デジカメで写してきたが、愛宕神社、鞆絵小学校、板垣退助邸が、はっきり見えておもしろい。

 愛宕山は「鉄道唱歌」の1番に出てくる、名の知れた山。♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山にいりのこる 月を旅路の友として♪

 講談でも名高い。丸亀藩士の間垣平九郎が、86段の急な階段を馬で駆け上った逸話がある。

 愛宕神社は防火の神様。徳川家康が建立したので、葵の紋がある神社だが、なんの御利益もなかったことになる。

 愛宕山にも火の粉が飛んできて、安全地帯ではなくなった。女坂を下りて芝公園を目指したが、広い公園は人であふれて身動きもできない。さらに西を目指した。乃木神社の近くに、アメリカ時代の知り合い・Yドクターの住まいがあったので、そこに身を寄せた。

 母の歩いた道を、地図でたどってみると、小学3年生にしては、よく歩いたと感心する。道は寸断、ビルは倒壊、身動きできぬほどの人波、火の手があがっている中のことだから、通常とは違う。揺れた瞬間よりも、この時が怖かった。火の勢いがどんどん増して、後ろから迫ったきたからだ。

 『図説・関東大震災』(河出書房・2003年発行)には、芝区の被害が具体的に書いてある。

「・・被害が増大したのは、夜8時を過ぎて、20bもの北風に変わったからだった。すなわち、京橋・八官町の大下流が一気に芝区内に南下してきたのだった。・・2日午前零時頃には愛宕町、愛宕山下一帯で猛威をふるった。・・猛火は芝公園と増上寺の樹林に遮られたあと、南下して同9時過ぎに金杉町付近で消し止められた。・・」

 この記述と母の記憶を合わせると、リアルに当時の様子を想像出来る。公園や樹林が防火に果たす役割を、いまさらのように感じた。この本の「東京市火災延焼状況図」によると、類焼した区は、本所区、荒川区、浅草区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区。被害は下町に集中している。合併する前の区名だが、むしろその方がわかりやすい。

 ちなみに、この時17歳だった父は、牛込区戸山町に住んでいた。父は2階にいたが、階段を下りるのがやっとだった。でも家は無事。牛込では、1軒も焼けなかったらしい。同じ東京でも、母と父では被害がまるで違う。「9月だ。さあ受験勉強をはじめようか!」と決心した矢先の地震だった。勉強どころではなく、本所・被服廠跡などを見て回った。ボランティアをしたという話は聞いたことがないから、単なる野次馬ではないかと思う。受験勉強を始めたのは、10月に入ってからだ。

 陸軍戸山学校の裏に2万坪もの広大な竹藪があり、父の住まいは竹藪の地続きにあった。余震が怖かったので、何日間も竹藪で野宿をしたという。あちこちで発生した火災は、「朝鮮人が火をつけたから」の流言が飛び交い、戸山学校の竹藪に、朝鮮人が籠もっているという噂まで出た。父は、竹槍を作る作業に励んだ。これで朝鮮人を突き刺すのだと、当時は本気で考えていたそうである。
 
愛宕山の男坂 平九郎が将軍に献上した梅 境内の桜は満開だった

 母が避難した愛宕山には何度か行ったことがあるが、この項を書くにあたり、また行ってきた。間垣平九郎が馬で駆け上った階段は、男坂と言われるだけあり、かなり急である。この階段の右手には、もう少し緩やかな女坂もある。平九郎が、将軍家光に献上したと言われる「将軍梅」の木も残っている。江戸初期の梅の木が平成の今も残っているのだろうか。

 書生さんが、荷物をくくりつけた桜の木はどれだろう。桜の寿命は短い。1923年当時の木とは思えないが、満開の桜の木を数本写してきた。今は高いビルや茂った木がじゃまをして、三越方面などまったく見えない。でも戦前から住んでいる方が、「境内そのものは、ほとんど変わってませんよ」と話してくれた。

 境内の隣地に立つ放送博物館は、放送の歴史を知る上で見逃せない。入館料が無料のうえに、古いテレビも上映するので、お勧めだ。

 ここ愛宕山から、JOAKNHKがラジオ放送を開始したのは、震災から2年後。当時の唯一の情報手段である新聞が発行不能となれば、口コミしかない。デマや流言が飛び交い、疑心暗鬼になった人々は、数千人の朝鮮人を虐殺した。戒厳令も布かれた。ラジオ放送さえあれば、虐殺もなかったかもしれない。被害もこれほど広がらなかったかもしれない。

 JOAKが本放送を開始したのは1925年7月12日。聴取者数は5455人だけだった。母は、出来たばかりの放送局を、何度ものぞいたことがあるという。子供心にも、ラジオは不思議で楽しいものだったに違いない。(2004年5月21日 記)

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