5.大正天皇崩御
 
 関東大震災で家と家財一切を失った母たちは、大久保(現在は新宿区)の祖母の実家に身を寄せた。通っていた鞆絵小学校も焼けたので、転校せざるを得ない。転校先では、級友が、学用品や衣類を持ち寄ってくれた。何一つ持ち出せなかった母には、地獄に仏の品々だったに違いない。

 ところが、子どもはいつの時代でも残酷だ。母が着ている洋服を見て「それは私があげたのよ」と、目の前で言う子がいたという。同情されるどころか、逆に「ワーイ避難民の子〜」と囃し立てられることもあった。「今の子は思いやりがない、昔は陰惨なイジメはなかった」と言われるが、大正時代にもイジメはあった。

 「私があげた洋服・・」の話を聞いた祖父は、すぐ横浜に洋服を買いに行った。右写真のレース襟の服が、その時の1枚だと言うが、裏に大正14年10月の記載がある。震災は大正12年だから2年も前の洋服にしては身に合っている。母が勘違いをしている気もするが、こんな洒落た洋服を「避難民の子」は、着ていた。

 母が持っている黒いキューピーは、今も見かけないが、当時も珍しかったらしい。神楽坂で買ってもらったと言っている。震災から2年後なのに、困窮しているようには見えず、不思議でならない。祖母はご覧のように、母や伯母とは似ても似つかぬ美人。「どうして、私たちのような子が産まれたのか、皆が不思議がったのよ」と、何度も聞かされている。祖母のロングドレス姿は、後に載せるつもりだ。

 ほどなく、鞆絵小学校の仮校舎が完成した。大久保から元の小学校に市電で通ったが、焼け跡に新しい家が完成し、電車通いは終わった。結局、入学した小学校を、卒業している。

 
 前置きが長くなったが、この写真を撮ったほぼ1年後に、大正は終わりを迎えた。大正天皇崩御は、1926年(大正15年)12月25日午前1時25分。左の東京日日新聞の号外は、『昭和史全記録』(毎日新聞社1989年発行)を借用コピーした。

 母は小学校6年生で、女学校受験の勉強をしていた。受験勉強と言っても、塾があるわけではない。小学校の先生方が指導してくださった。

 母が受ける学校の試験科目に作文があった。「大喪の礼について、書かされるかもしれない。よく見ておくように」と、先生がおっしゃった。試験に出ると言われて、無視するわけにもいかず、家から近い虎ノ門の高台で、見学した。

 当時の葬儀は、夜間から明け方にかけて粛々と行われた。たいまつが照らす闇の中を、棺を載せた牛車がゆっくり進むという悠長な式だった。暗くて寒くて凍えそうだったことしか覚えていないと、母は話す。結局その問題は出なかったが「試験に出るかも・・」は、いつの時代でも殺し文句だ。

 母が震えながら見学した大喪の礼は、1927年(昭和2年)2月7日。寒いはずだ。しかも夜中だから、風邪でもひいたら、身も蓋もない。私が親なら判断に迷う。

 左写真は、やはり『昭和史全記録』を借用した。予行演習との説明がついているから、昼間の写真。まるで源氏物語の世界を見ているようである。

 13万余人の大喪恩赦も行われた。減刑は、4万余人。不敬罪と治安維持法違反者が恩赦の対象になった。不敬罪で、こんなにも多くの人が罪をかぶっていたことになる。

 ところで、上の東京日日新聞(今の毎日新聞)を見てお気づきだろうか。元号制定 光文と決定とある。朝日新聞の号外(右)には、「昭和」と決定さるとある。

 両新聞社とも、崩御当日の号外である。崩御と同時に、元号決定の報道をしている。崩御間近とみて、報道合戦を繰り広げていたことになる。それこそ不敬罪ではないだろうか。

 東京日日新聞は、早くから「元号は光文になるらしい」の極秘情報を得ていた。いくつか本にあたってみたが、新聞社に漏れてしまったので、急遽昭和に変えたという説や、もともと政府は昭和を考えていたなど諸説ある。いずれにしろ、東日の大特ダネは、数時間後には大誤報に急変したことになる。(2004年6月5日 記)

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