母が語る20世紀

  6・亡命ロシア人・ナターシャ

 大正天皇崩御2ヶ月後に、母は女学校を受験した。番号は98。「前の人に突き飛ばされてね。本当は97だったけど、むしろ98で良かった。末広がりだから」と祖母が喜んだ。願書を出すときの親の心境は、当時も今も変わらない。

 私は、付属小の編入・高校・大学と3回も受験をしているが、番号など覚えていない。「今日は何日?」と何度も聞く今の母を思うと、98を覚えているのは、摩訶不思議である。

 母が受験した「東京女子高等師範学校・高等女学校」(通称東京女高師あるいはお茶の水女学校)は、小学校からの持ち上がりクラスがあるので、1クラスの人数しか採らない。末広がりのおかげかどうか、鞆絵小から2名も合格した。これには、校長先生まで大喜び。卒業式の総代をどちらにするか、先生方は困ったという。

 合格から入学までの間に、鶴見の「花月園」のリンクに数回通って、スケートを覚えた。花月園は、大正3年に開園した遊園地。東洋一の遊園地で、子どもばかりでなく、大人も熱狂したという。母にスケートの手ほどきをしたのが、父である。母12歳、父20歳。東大のスケート部に属していた父に、祖父母が「房子に教えてやってくれ」と頼んだ。なぜ父が、母の家に出入りしていたのか。本題から離れすぎるので、別の機会までお待ちいただきたい。

 愛宕神社下の自宅から、「新橋駅」まで歩き、省線(JR)で、「お茶の水駅」まで通った。校舎が関東大震災で全焼したので、在学中はバラックの仮校舎だった。卒業直後の昭和7年に、大塚に移転したので、この地には何も残っていない。

 右写真は、お茶の水駅と聖橋。橋を渡ると右手に聖堂、左手に東京医科歯科大学がある。母のお茶の水時代を書くにあたり、この辺りを歩いてみた。医科歯科大学構内に「近代教育発祥の地」なる説明板を見つけた。東京女高師が建っていたことも記されていた。やはり、足を運んでみるものだ。

 
 
 やっと本題に入る。「たぶん1年生だった」と母は言う。バラック校舎と「湯島の聖堂」が地続きだったので、昼休みによく聖堂境内まで遊びに行った。そこで、ロシア人の女の子・ナターシャに会った。ナターシャといえば、トルストイの「戦争と平和」を思い出す。ロシアに多い名前なのかもしれない。何度も会っているうちに「遊びにおいで」となり、ニコライ堂近くのアパートに案内された。中に入るのが気の毒なほどボロ家だったらしい。父親は、いつも肩に布をかついでいたので、羅紗の行商をしていたのではないか。

 たったこれだけのエピソードだが、ロシア革命を身近に感じたという点で、聞き捨てならない。上の新聞は、「重要紙面の75年」(朝日新聞)のコピー。大正6年3月17日の日付。

 年表によると、ペトログラードの軍隊が蜂起したいわゆるロシア2月革命は3月12日。ニコライ2世が退位したのは15日。当時は、遠い国のニュースは、かなり遅れたと思われる。17日夕刊には、ニコライの退位など載っていない。

 ナターシャの年齢から想像するに、革命時はまだ産まれていない。自分の国を捨てる亡命がどういうことだったのか。母の話から想像するしかないが、恵まれた生活をしていたとは思えない。特に太平洋戦争中は、青い目というだけで、迫害されたと聞く。彼らは戦中戦後をこの日本で、無事に生き延びたのだろうか。ナターシャは母より5歳ぐらい若い。存命だろうか。

 亡命ロシア人がこの辺りに住んでいた理由は、明白だ。線路をはさんで反対の明治大学側に、ロシア正教の教会がある。(左右の写真)。ビザンチン様式で1891年(明治24年)完成。大震災で全焼したが、早くも昭和4年には再建された。

 正式には「日本ハリストス正教会」という。内部を有料で公開しているが、イコンが飾ってあり、ロシア正教とカトリック、プロテスタントの違いが一目瞭然だ。

 一番上の写真にある聖橋は、ニコライ堂と、聖堂を結んでいるからの名である。築地塀で囲まれた聖堂周辺は、大木が茂り、都心とは思えない静けさを保っている。孔子を祀る大成殿(右写真)は、5代将軍徳川綱吉が、上野の忍岡からこの地に移した。江戸時代は儒学が重んじられたので、孔子は大事にされたいた。ここも大震災で全焼したが、昭和10年に再建。

 聖堂と同時に、幕府のご家人や旗本の師弟のための、昌平坂学問所(左写真)もここに移された。全国にある藩校の総元締めのようなものだ。

 この学問所は、明治時代に政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。東京医科歯科大学の構内に、近代教育発祥の地の説明があったが、元はと言えば、昌平坂学問所である。

 話がそれたついでに、聖堂の真ん前にある神田明神にも触れておきたい。(右下写真)。神田明神は、平将門らを祀る神社、江戸時代には、総鎮守として栄えた。神田祭は当時も今も大賑わいだ。

 JR「お茶の水」あるいは東京メトロ「新お茶の水」駅周辺は、神さま、孔子さま、イエスさまが勢揃い。今回は仏さまは取り上げなかったが、もちろん寺はたくさんある。

 母の青春時代の面影を見つけるための散歩だったが、私にも面白かった。女学校時代の母も、きっと学校が好きだったに違いない。わくわくするような見所にあふれている。聖橋の上で父によく出会った話は、別の機会に。(2004年6月28日 記)

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