7. 浜口雄幸首相
  

 浜口雄幸首相が東京駅で襲撃されたのは、1930年(昭和5年)11月14日である。母は女学校の4年生。「ライオンのおじさまが大変だ!」と心配したと言う。下の新聞は、例の「朝日新聞の重要紙面」のコピー。岡山で行われる陸軍の大演習を陪観するために、特急「つばめ」に乗ろうとしていた。


 
 彼が首相の座についたのは、前年の1929年7月2日。政友会の田中義一内閣の総辞職後に、野党・民政党の総裁だった彼に政権が回ってきた。田中内閣総辞職の直接の原因は、「満州某重大事件」である。日本軍の意のままにならない張作霖を、列車爆破で死にいたらしめた事件だ。このような軍部の暴走を隠蔽したことが、天皇の怒りを買って、辞職に追い込まれた。1945年の敗戦までの、いわゆる15年戦争の前触れである。「暗い時代」がひしひしと迫っていた。

 浜口内閣は、金本位制を復活させ、軍部の膨張を許さぬ体制を作り上げようと、確固たる構想を持っていた。蔵相の井上準之介と組み、金本位制を復活し、金解禁を実現した。軍や枢密院に屈しない姿勢は、国民、野党の政治家、天皇にも信頼されていた。

 話はそれるが、この時の逓信大臣は小泉又次郎。小泉純一郎の祖父である。又次郎は、普通選挙運動の闘志でもあり、「又さん」の愛称がある民衆政治家。「野人には名誉はいらん、おれは大臣にはならん」とごねたが、浜口の説得で大臣の座についたという面白いエピソードを持つ。

 東京駅(左写真)は、大正3年に完成した。太平洋戦争で被害にあったが、修復している。今や数少なくなっている大正時代のレンガ建築だ。

 大正10年に、平民宰相と言われた原敬が狙撃され即死している。遭難した現場の東京駅丸の内南口付近にプレートがある(左下写真)。

 この事件以後、首相の乗降時には、一般客の乗り入れを制限していたが、浜口は「迷惑をかけることはない」と、特別扱いを止めさせた。それが仇になった。

 かけつけた医師に「男子の本懐です」と、つぶやいた。「男子の本懐」は聞いたことがあるフレーズだと思い調べたところ、城山三郎の同名の小説があった。(新潮社・1980年発行)。

 「男子の本懐」には、浜口と井上準之介の生涯が書かれている。膨大な資料を基にした小説なので、この項を書くにあたり、参考になった。

 この時は一命をとりとめたが、回復は思わしくなく、約1年後の1931年8月に亡くなった。蔵相の井上準之介も、半年後に狙撃されて亡くなった。

 「男子の本懐」には、浜口雄幸と井上準之介が凶弾に倒れなかったら、その後の戦争を避け得たかもしれないという思いがあふれている。当時の警備は、現在ほど厳重でなかったのだろうか。1932年の5.15事件、1936年の2.26事件と首相が襲われる事件が相次ぐことになる。

 母の家族が「ライオンのおじさま」の容態を心配したのは、わけがある。母が小学生の時の一時期、愛宕山麓の隣人は、浜口雄幸だった。人力車が待つ大通りまでの数bの路地で、よく出会った。「おはようございます」「おはよう」と気軽に挨拶を交わしていた。人力車が待つ所までの見送りは、いつもお兄さん(書生か秘書)で、奥様の姿は見たことがない。庭が隣接していたので、お互いの洗濯物が行き来し、そのために、ねえや同士は仲が良かった。ここでも母の記憶に、奥様は出てこない。文字通り、奥におさまっていたのかもしれない。

 隣に住んでいたのが、震災の後なのか、前なのかはっきりしないという。「男子の本懐」には、浜口の借家暮らしは長く、何度も引越をしたとあるが、愛宕山の麓に住んでいたとは書かれていない。でも細かい記憶がリアルなうえに、「こんな顔をしていたのよ」と母が作る容貌は、ライオン首相のあだ名そのままなので、信じるしかない。上の新聞で白い髭の男性が、浜口首相である。「手術後に、おならが出た事が、大きく報じられたのよ」と母は言う。おならが出るのは、手術の成功を意味した。丹念に見れば、その新聞もあるはずだが、そこまで探せなかった。

 隣人だった時の身分が何であれ、のちに首相になるような人が自動車ではなく、人力車を使っていたことに驚いたが、当時は人力車優勢だった。祖父にもよく人力車の迎えが来た。「お迎え〜」と独特の抑揚で、道路から叫んでいた。いつごろから人力車は、自動車に取って代わったのだろうか。

 大正元年には、全国で、自動車が760台、人力車が127,000台。圧倒的に人力車優位。昭和3年になると、自動車が60,000台、人力車が62,000台と、ほぼ並ぶ。もっとも、浜口にはお気に入りの車夫がいて、蔵相の時も人力車に乗っていたという。

 東京駅に、何か痕跡があるかもしれないと訪れてみた。原首相遭難現場のプレートがあるように、浜口首相遭難のプレートも、中央通路の10番線付近の柱にあった(右写真)。駅のインフォメーションで聞き、やっとわかった。中央通路は、皆がせわしなく行き交っているが、こんなものには、誰も目を留めない。

東京駅には、悲劇のスポットばかりでなく、見所がたくさんある。東京駅が起点になる幹線のゼロキロ標識や、天地創造のステンドグラス、東京駅の石碑など。

 東京駅を散策するような酔狂な方は少ないと思うが、1時間ほどあれば、十分楽しめる。列車待ちの時間を利用なさったらどうだろうか。

 その中のひとつ。オヤ!と思う左写真をお目にかけたい。大正3年開業時の支柱を見ることができる。6番線(山手、京浜東北線)のホームに、ギリシャ神殿風の柱が数本ある。全部撤去せずに、数本だけでも残してくれたのはありがたい。でもどうして、日本の駅なのに、ギリシャ神殿なのか。駅舎もオランダのアムステルダム駅とそっくりである。舶来がもてはやされていた頃だから、仕方がないかもしれないが、少し残念だ。(2004年7月7日 記)

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