8. 良子(ながこ)皇后さま

  母が通った女学校には、皇后さまが4年に1度、視察にいらした。「運が良い人は、2度もお目にかかれたのよ。1年生と5年生の時に。私は1度だけだった」と、母は少し残念そうだ。母が在学中の皇后さまは、昭和天皇の皇后「良子(ながこ)さま」のことである。

 女高師の校歌「みがかずば 玉も鏡も 何かせん 学びの道も かくこそありけれ」は、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の和歌がそのまま歌詞になっている。クリックすると曲が流れる。母の思い違いもあろうかと、電話で問い合わせたところ「その通りです。明治11年に出来た古い歌ですが、今も歌われていますよ」の答えが返ってきた。

 女高師と皇室の関係は知らないが、校歌といい、皇后さまのご来校といい、当時は恐れ多くも誇らしいことのようだった。「校門でお迎えしたのよ。頭を下げっぱなしだとお姿が見えないので、この時だけは顔を上げてもよかったの。ニコニコなさって、とてもおきれいだった」と、母は言う。

 久邇宮良子女王と摂政裕仁親王のご結婚は、大正13年1月26日。(右写真)。大正天皇が病弱だったので、皇太子ではなく摂政宮(大正10年に摂政)と呼ばれていた。

 天皇の即位礼は、昭和3年。女学校入学は昭和2年だから、皇后さまご来校は、即位なさったばかりで、まだ20歳代。おきれいなはずだ。

 来校なさったときに、生徒の作文や絵を差し上げる慣例があり、母が描いた「椿」の絵も選ばれた。後に、宮内省という判が押されて戻ってきた。

 小さい時に、祖父の家で「椿」をちらと見たことがあるが、年月が経っているせいか、色彩が淡くて、薄ぼけた絵にすぎなかった。生徒の作品など、有り難くもないだろうに、ご大層なことである。

 母が京都・奈良・伊勢の修学旅行を語るときに、かならず出る話が3つある。ひとつは、京都の宿が「柊屋」だったこと。今でも一見さんは泊めない格式高い宿である。(左)。「柊屋に泊まるなんて・・」と祖父母も驚いたという。女学生が、2泊も高級旅館に泊る理由がわからない。

 ちなみに、奈良は「奈良ホテル」だった。(右上)。2つ目は、結婚して大阪に住んでいた姉が、赤ちゃんを連れて宿まで会いに来てくれたこと。

 3つ目は、伊勢神宮に行った時の話。境内を流れる五十鈴川で浄めのために手を洗っていると、Sさんが声を出して泣き出した。母や他の人は、淡々としたものだったが、いよいよ伊勢神宮に詣る時が来たとて、感動のあまり大泣きする同級生がいたことは事実である。Sさんの家庭では、「天皇は神」の話が出ていたのかもしれない。

 学校では、「天皇は神」などの教育は一切なかったというが、国の空気は、天皇崇拝に満ちていたに違いない。皇后さまのご来校は、今では考えられないほど名誉な出来事だったのだ。

 母に関する話はこれだけだが、少し寂しいので、即位式の華やぎをどうぞ。昭和3年の11月10日に、京都の紫宸殿で行われた。左は、御大典を前にした京都駅前。3枚の写真は、「昭和史全記録」(毎日新聞社発行)をコピーした。今の京都駅とあまりに違う。この光景を覚えていらっしゃる方がいるだろうか。

 もちろん、東京でもお祝いムードは最高潮に達していた。

「新橋から京橋、日本橋と続いた旗と提灯の波、華やかな幔幕・・。室町から旧魚河岸付近はさすが気散じな江戸気分、まのあたり「三社祭」や「保名」の背景を見るようだ。三越、白木屋、松屋、松坂屋、高島屋の五大百貨店をはじめ、通りの商店はいずれも大戸を閉じ「奉祝休業」と張り紙し、鳳凰、日の丸、奉祝歌の譜などとりどりに趣向をこらした飾り窓は紅白の中に誇り顔・・」と、記事にある。(東京朝日)。喜びと華やかさが伝わってくる。当時の五大百貨店、白木屋はもうない。

 大正天皇の崩御後は、「長いこと歌舞音曲が禁止だったの」と、母は語る。若い人が、耳でカブオンギョクと聞いたら、どんな字かわからないと思う。静かにしていただけに、この時の喜びは大きかったと思われる。

 左の説明には、日本橋街頭の奉祝、右の説明には、御大典を迎えた京都の町並とある。
(2004年 7月17日 記)






 女学校時代の写真があまりにもないので、ふと思いついて、「作楽会」という同窓会の事務局に電話をしてみた。「百周年の記念誌がありますから、見にいらしてください」と言われ、7月24日に「茗荷谷」にある会館を訪ねた。この項に関係ある資料もあったので、付け加えることにした。事務局の方には、HP掲載の許しをもらっている。

 右が良子皇后行啓の写真。母の「一度しかお目にかかれなかった」発言は正しかった。3年生の3月27日のことだった。春休みではないのだろうか。この本は平成3年発行なので、現皇太后となっている。思わず「素敵!」と言いたくなるお姿である。

 左上が「昭憲皇太后の御筆」。明治9年に当時の東京女子師範に、校歌として賜ったの説明がついていた。(2004年7月25日 記)
 
感想をお寄せ下さいね→
母が語る20世紀 1へ
次(田沢温泉)へ
ホームへ