9. 田沢温泉

 母の若い頃の写真は、ほとんどない。関東大震災前の写真がないのは仕方ないが、それ以後もない。仙台空襲は、ある程度予測がついたことだが、防空壕が不完全だったために、焼けてしまった。

 数少ない写真は、母の実家にあったもので、女学生姿の唯一のものだ。同級生を訪ね歩けば、学校生活がわかる写真があるかもしれないが、以前は手紙をくださった同級生も、ここ数年は音沙汰がない。

 立っているのは、左から母、祖父、伯母の夫の六郎さん。六郎さんの前に座っているのが、六郎さんと学生結婚していた私の伯母である。その隣に座っている女性は伯母の友人だが、連絡のしようがない。HPに載せる許可を貰えなかったので、覆面にした。祖母が写っていない理由はわからないが、母の女学校時代の写真がこれしかないので仕方ない。

 母が着ているのは学校の標準服。ブラウスは自由だったが、ベルトは決められていた。ベルトを腰のいちばん太い所に締めるのが流行っていたが、服装検査では怒られる。ベルト通しを二つ作って、検査の時だけウエストの場所に移した。いつの時代にも、決められた服装に反発する生徒がいて、検査をする先生がいる。両者のだましあいが面白い。母は、もちろんいちばん太いヒップの部分に締めていた。父が「すごくみっともなかった」と笑いながら話すのを何度も聞いている。この写真では、校則違反はしていないが、いくぶんローウエストだ。

 角帽をかぶったハンサムな学生が、伯母の夫である。結婚時は東大の薬学科で勉学中。養子に来たので、祖父が学費を出した。伯母夫婦の長男は、昭和3年の5月生まれ。ここに赤ちゃんがいないので、昭和2年、母が1年生の時に写したものだと察しがつく。

 伯母夫婦は大恋愛の末に結ばれた。ロマンスの舞台は、信州の田沢温泉。伯母は府立第5高女の女学生で、伯父は、上田中学から仙台の旧制2高に進学していた。

 田沢温泉と聞いてピントくる方は少ないだろうが、上田の別所温泉に近い。毎年夏休みには、祖母と伯母と母の3人で、左写真の宿に、長逗留していた。田沢温泉の湯が、皮膚が弱い伯母の治療に有効だったようだ。

 小諸に家がある伯父も、母親と一緒にこの宿に滞在ししていた。

 両家は2階の少し離れた部屋に泊まっていた。「六郎や、そろそろ部屋に戻りなさい」と、毎晩母親が迎えに来た。廊下をすたすた歩く音まで覚えていると、母は言う。母はといえば、姉の恋心など知らず、兵ちゃんという宿の子どもと無邪気に遊びほうけていた。

 六郎さんは、名前のように6番目の男の子。他に女のきょうだいもいて、子沢山だったからか、簡単に養子に来てくれた。六郎さんの兄たち、長男・三男は名の知れた大会社の重役になった。次男は別の項で取り上げるが、医者であり作家だった。伯母夫婦の長男である従兄に言わせると、「下にいくほど、ダメだったんだよなあ」。真偽のほどは、私にはわからない。
 
 数年前に、軽井沢に行った時に、帰りにどこに寄ろうかの話になった。「いつもお母さんが話している田沢温泉に行ってみようよ。旅館の名前覚えてる?」と聞いたら、しばらく考えていた母は「ますや。宮原さんという名よ」と答えた。

 半信半疑で車を走らせると、「ますや」は昔のまま残っていた。母の物忘れが目立ち始めた頃だったので、正直言って「ますや」の名が出たのは驚いた。突然の訪問にもかかわらず、女将さんは「父母から加藤さんのお名前は伺っていました」と、なつかしそうに迎えてくれた。

 なんと、幼なじみの兵ちゃんもいたのである。兵ちゃんはこの宿の跡継ぎではなく、親戚の息子で離れに住んでいた。母は兵ちゃんの名前を覚えていたが、兵ちゃんはたくさんいる泊まり客にすぎない母を忘れていた。一緒に写真には収まったが、さほどなつかしそうでもないのが面白かった。

 映画通の方は、上の写真の「ますや旅館」の看板を見て、「おや!」と思うだろう。松坂慶子主演の「卓球温泉」のロケに使われた。ビデオで見直してみると、「ますや」のあちこちが写っていた。

 その後、母の88歳の祝いの時に、安積ファミリーで泊まったが、島崎藤村が泊まった部屋もそのまま残っていた。「千曲川のスケッチ」には、ますや旅館の記述がある。

「・・升屋(ますや)というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。・・」

 「ますや」のHPもあるので興味のある方はどうぞ。

 「20世紀9」は、プライベートな話ばかりになってしまったが、お許し願いたい。父と六郎さんは、旧制2高で親友だった。仲間8人は、ドイツ語の8のアハトをもじって吾羽徒会を作って、死ぬまで家族ぐるみで交流を続けた。私も全員の顔を知っている。

 父が話す旧制高校時代は、逸話に不足はない。勉強そっちのけで豪快に遊んでいる。仙台の町は、こうした学生に寛容だったのである。左は、旧制2高があった場所に建っている銅像。高下駄、マント姿に、なつかしさを感じる方がいらっしゃるかもしれない。

 父も六郎さんも、旧制2高から東大に進学した。伯母夫婦は、結婚後も愛宕山下の家に住んでいたので、父は当然のことながら、遊びに行く。祖父母の家には、常時ふるさと金沢の若者が居候していて、そのうちのひとりは、のちにイギリス大使になったY氏だ。

 こういう家だったので、父がいようが邪魔にもならなかった。おまけに六郎さんが「こいつは、将来ノーベル賞をとるよ」など、オオボラを吹いていたので、まさかこれを信じたわけでもないだろうが、いつの間にか「房子と結婚したらどうか」となったらしい。

 母が女学校に受かった時には、父はすでに出入りしていた。赤門スケートクラブに属していた父に「スケートを教えてやってくれ」と祖父母が頼んだのも、自然のなりゆきだったのだ。父と母の結婚は、スケート場に咲いた恋でもなんでもない。父が20歳の時に母は12歳だから、恋心などまったくなかったと父も母も強調している。

 私は、聖橋の出会いに、少しロマンを感じる。母が登校する時に、聖橋(右)で、よく父に出会った。スケートを教えてもらった頃から数年は過ぎているような気がする。

 父が大学院に行っていた頃かもしれない。徹夜で実験をして、朝ご飯を食べに信濃町の自宅に戻る途中だった。「偶然に決まってるわよ。ろくに話なんかしないのよ。おお!ぐらいしか」と母は、まったく情緒を感じさせない口調で語った。

 本郷とお茶の水のは、充分歩ける距離だ。昭和初期なら歩いてもなんら不思議はない。生前の父に確かめなかったのは残念だったが、母の登校時間にあわせて、帰って来たような気がしてならない。

 先日、東大の構内を歩いた時に、化学教室を見つけた。(左上写真)。出てきた白衣の学生に、「この校舎は建て直してませんよねえ」と聞いた。「ええ、こちら側はそのままです」の答えが返ってきた。お父さん子だった私は、愛しい思いで校舎をデジカメにおさめた。(2004年7月23日 記)

 前項にも付け加えたが、同窓会の百周年誌を見せてもらったので、母に関係ある部分をコピーしてきた。HP掲載は事務局から許しをもらっている。

 制服のうつりかわりの日本画。「7と8は、昭和7年から制服になった。それまで数年間は標準服が5種あり、どれを着ても良かった」の説明がついていた。母が制服ではなく標準服だったと言うのは、正しかった。

 制服のうつりかわりの8の絵は、母が着ている標準服と同じだとおわかりだろうか。「あのバンドはね、もともとは袴の上にするものだったのよ」も、正しいことがわかった。

 私は自分の高校の制服など興味もないし、同窓会館を訪ねたこともない。いまさら母の制服を調べてもどうなるわけでもない。いったい私は何をしているんだろう。(2004年7月25日 記)


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