アメリカの旅5 
 ジョンソン宇宙センターとニュオーリンズ

2014年5月26日(月)−7日目

サンアントニオから300q走って、ヒューストンアメリカの旅1の地図参照)に着いた。ヒューストンの名を知らない日本人はいないだろう。NASAのジョンソン宇宙センターがあり、航空宇宙産業の中心の町だった。アポロを打ち上げるたびに「ヒューストン」の名前が出てくるので自然に覚えてしまった。

飛行士ヒューストンの人口は、全米4位の220万人。「3位のシカゴを抜く勢いです。宇宙産業はもう終わりですが、医療や石油産業の発展が著しいです。1972年からドクターヘリを持つ医療センターがあります。ローヤルダッチシェルやシェブロンなど石油化学の本社もヒューストンにあるんですよ」と話してくれた。又もや、私が勝手に描いていたテキサスのイメージが覆された。なんせ、フォーチュン500に入る企業の本社の数が、ニューヨークについで多いとか。

ビュッフェスタイルの昼食後、NASAスペースセンターへ。NASAはアメリカ航空宇宙局の略で宇宙開発を担当する連邦機関。1958年に設立された。いうまでもなくアポロ計画で人類初の月面着陸、長期宇宙滞在、スペースシャトルを実現させた。日本人宇宙飛行士も活躍する時代になった。

ヒューストンにあるジョンソン宇宙センターはそのひとつ。テキサス出身の大統領ジョンソンにちなんで名がついた。今は国際宇宙ステーションの研究に取り組んでいる公務員が3000人ほどいる。打ち上げはフロリダのケネディ宇宙センターになったが、飛行士とのやりとりは、ヒューストンでやっている。



管制室 帰還したアポロ アポロ18号

アポロ打ち上げの時に
使っていた管制室
 

地球に帰還したアポロ
表面は焼けている
 
アポロ18号
予算削減で飛べなかったアポロ


私たちが見学したのは、見学専用の施設。学術的雰囲気はないし、子どもが喜びそうなゲームもある。テーマパークみたいだなと思ったが、ディズニーランドが経営しているという。楽しませるプロが携わっているのだ。3連休の最中だったので子供連れで混み合っていた。いずれにしても年間500万人の見学者がある。

学術的でないとはいえ、月の石や、アポロを打ち上げた時の今は使ってない管制室を見て、ルイ・アームストロング船長らがアポロ11号で初めて月に到着したときの興奮を思い出した。本物のアポロ18号も展示してあった。予算削減で飛べなかったのだ。アポロは11号から17号まで月面着陸したが、今は計画そのものが中止されている。

売店で宇宙食を買ってみた。袋は仰々しが、クリーム入りクッキーが1個入っているだけで5ドル+消費税。高過ぎ、儲け過ぎ。

ヒューストンを出てしばらく走ると、8番目の州ルイジアナ州に入り、レイクチャールズという町で宿泊した。レイクチャールズ湖は、アチャパラヤ湿原にありメキシコ湾に接している。つながれば塩水湖だ。ここのホテルにも大きなカジノがあった。カジノ場に入るだけならお金はいらない。のぞいてみたが、やりかたすら分からないから話にもならない。       <レイクチャールズ ハンプトンイン泊>

5月27日(火)-8日目

今日はルイジアナのニューオリンズまで走る。ルイジアナと聞くと涙腺がゆるんでしまう。数年前に亡くなった兄が、1960年から3年間ルイジアナ州立大学に留学していたからだ。フルブライト奨学金をもらい、その資金だけで留学生活を終えた。人種差別が強い南部の大学を選んだのは、同じ分野の教授の指導を受けたかったからだ。1960年ころは、おおぴらに黒人が差別されていた。ところが、真珠湾攻撃をした国から来た黄色人種は、さほど差別されなかったらしい。もちろん心の中まではわからない。大学生活や地域の人との交流を綴った楽しげな手紙は家族みんなが待ち遠しかった。

大学は州都のバトンリュージュにあった。「ルイジアナは元フランス領だったので、バトンリュージュも赤い枝を意味するフランス語」と奥村さんが説明してくれた。兄が2度目に家族でバトンリュージュに滞在していた30数年前に、バトンリュージュとニューオリンズをちょっとだけ訪れた。今回の旅では、バトンルージュは素通りだ。高速道路の車窓から、ビル群を眺めただけで終わった。25万人しか住んでない割には、以前より高いビルが増えたような気がする。

バトンリュージュとニューオリンズの間に、ミシシッピ川に沿ったリバーロードがある。この一帯は、18〜19世紀にたくさんのプランテーションがあったところ。奴隷を使って綿花やサトウキビを栽培していた農園主の豪邸がいくつか残っている。今はサトウキビや綿花は採算があわないので、栽培している農家はないらしい。

「風と共に去りぬ」の小説も映画も大好きな私は、ぜひとも訪れたい場所だった。「風と共に去りぬ」のタラの農場がフィクションとは分かっているが、タラの雰囲気に浸れるに違いない。奴隷酷使があったからこその豪邸なので、決して良い気持ちはしないが、これも歴史の通過点だったと考えるしかない。

オークの並木 農園領主の豪邸 スカーレットの服装をしている女性

 28本のオーク(樫の木)が
茂っている

 かつての農園領主の豪邸が
40年前から開放されている

 
スカーレットにちなんで
緑色のロングドレスを着た女性


いくつか保存されているプランテーションハウスの中のひとつ、オークアレイを訪れた。名前の通り、28本のオーク(樫の木)の巨樹が枝を伸ばしている。枝のトンネルが見事な光景を作っている。「風と共に去りぬ」のアシュレの樫の木屋敷はこんな風だったのだろう。

1972年に亡くなった主の遺言で、40年前から一般に開放。働いている女性は南北戦争当時のロングドレスを着て観光客を喜ばせている。緑一色のドレス姿もあった。「スカーレットがカーテンから作った衣装と同じね」と話しかけたら「そうよ」とニコッと笑った。

ニューオリンズアメリカの旅1の地図参照)に着いた。ルイジアナはフランスのルイ14世から、ニューオリンズもフランスのオレルアン公にちなんでつけられた地名。旧市街の中心地フレンチクオーターで自由時間になった。エリアカザン監督の映画「欲望という名の電車」は、フレンチクオーター辺りが舞台。映画にも登場した小さな電車がまだ走っていた。19世紀の街並みが残る一画はヨーロッパの雰囲気を残している。スペイン風の中庭、アイアンレースのついたバルコニーなど、印象としては30数年前とほとんど変わってない。

フレンチクオター ミシシッピ川 路上のジャズマン
 
フレンチクオーター
アイアンレースがついたバルコニー


ニューオリンズは 
ミシシッピー川の河口にある

路上のジャズマン
スーザ―フォンの音色が良かった 

路上の人たち 絵描き ジャズのライブ演奏
 
用もなさそうなのに
路上にたむろしている


路上の絵描き
ジャズマンを描いている
 

PHIL CAMPOという楽団
全員が白人
 

ジャクソン広場周辺では、相変わらず素人のジャズマンが演奏しているし、似顔絵描きもいる、路上でタップを踏んでチップ稼ぎをしている子どももいる。考えてみると、アメリカに来てから賑やかな街を歩いたのは久しぶりだ。荒涼とした景色、雄大な景色もいいが、私は人間がゴチャゴチャ歩いている都会が好きだ。

主にスナップ写真を撮っている私は、たくさんの被写体に会えただけでも嬉しい。実際にニューオリンズで撮った数枚が、アメリカ旅行写真の中では傑作になったと思う。

夕方から夜にかけての街は一段と面白い。ジャズの演奏にあわせて、路上に寝転がって踊る人が続出。自動車はクラクションを鳴らすわけでもない、徐行するか遠慮がちに避けて通る。レインボー・ルームというバーもある。肉体美豊かな裸の男性が店の前に立ち、客寄せをしているようだ。虹は同性愛者のシンボルなので、彼らが集まる店と聞いた。

夕食は、ルイジアナ名物のクレオール料理。前に来た時に数回食べた「ガンボ」がなつかしかった。ガンボは西アフリカの言葉でオクラをさすので、必ず刻んだオクラが入っている。ほかには野菜やチキンや米が入っている。

夕食後にバーボンストリートの「メゾンバーボン」でPHIL CAMPOという楽団のジャズを聴いた。前は「プリザベーションホール」という有名なホールで、飲み物なしだが非常に安いライブを聴いた。買ったレコードにサインしてくれたので、蓄音機を捨ててしまった今でもとってある。このときは全員が黒人だったが、PHIL CAMPOは全員が白人だった。「やっぱりジャズは黒人でしょ!」と思うが、ツアーだから文句が言えない。でもルイ・アームストロングの「what a wonderful world」や「聖者の行進」などおなじみの曲を演奏してくれたので楽しかった。

ルイ・アームスロングはニューオリンズ生まれ。「ニューオリンズの国際空港はルイ・アームスロング空港です」の説明があった。私達はバスで入ったので分からなかったが、差別が残る国で黒人の名を空港名につけていることに驚いた。       <ニューオリンズのウインダムニューオリンズ泊>    (2015年8月16日 記)

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