アメリカの旅8
 ワシントンD.C.

2014年5月30日(金)-11日目

きのうの夕食の幕の内弁当に続き、今朝もアトランタの日本人が作ったおにぎりで朝食をすませた。

ワシントンDCアメリカの旅1の地図参照)には定刻より20分早い9時25分頃到着。途中眠っている間に、13番目のサウスカロライナ州、14番目のノースカロライナ州、15番目のバージニア州を通った。奥村さんは旅の最初に「20の州とワシントンDCを訪れます」と言っていたが、2つの州は単に通過しただけ。寝ていたので外を見ることもなかった。

ワシントンDCのユニオン駅は大きい。スーツケースがグルグル出てくるところなど空港と同じだ。鉄道が斜陽とはいえ、さすが首都の鉄道駅。

ワシントンDCのDCは、District of Columbiaの略で、アメリカ大陸を発見したコロンブスと初代大統領ワシントンの名をつけた。どこの州にも属さずに連邦政府の直轄地。もともとはフランス人のピエール・シャルル・ダン・ファンが、ポーハタン族が生活していた森を伐採して作った計画都市。1800年から首都になった。

まず国会議事堂の外観を見た。50ドル紙幣に使われている。ちなみに100ドルは独立記念堂、20ドルはホワイトハウス、10ドルは財務省、5ドルはリンカーン記念堂。

議事堂のギリシャ神殿を思わせるドームの上には、自由の女神像がある。といっても肉眼では、あの自由の女神像なのかどうか確認ができない。ホワイトハウスもリンカーン記念堂もギリシャ時代のコリント様式やイオニア式の柱を真似している。歴史が新しいゆえのコンプレックスなのか、ヨーロッパ文明への憧れなのか。明治から大正期の日本の建築も、ギリシャ風の柱を作っている。他国のことは言えない。

 
ギリシャ神殿を思わせる
国会議事堂
 
有名なホワイトハウス
やはりギリシャ神殿風の柱
 
リンカーン記念堂から
眺めたワシントン記念塔


次は、ホワイトハウスへ。初代ワシントン以外の歴代大統領と家族の公邸である。外国要人との会談や調印式も行われるので、テレビに映る頻度は大きい。1814年米英戦争のときに、イギリス軍の焼き討ちにあった。1817年に、焼け焦げた壁を白く塗ったのでホワイトハウスと呼ばれるようになった。正式にはpresident houseだが、誰もそうは言わない。9.11後、特に警備が厳しくなり、周囲にはポリス車がたくさん停まっていた。それにしては、中を見学者らしき人が歩いている。事前に許可をもらえば見学は可能らしい。

ワシントン記念塔は、エジプトから略奪した本物のオベリスクかと思いきや、オベリスクに似せて作ったモニュメント。高さ169m。これより高い建物を作ってはならない条例がある。そう思って眺めるとワシントンには高層ビルはない。内部見学もできるとか。ワシントン市内が俯瞰で来てさぞ気持ちが良いだろう。モニュメントの大理石は途中で色が変わっている。南北戦争で工事が中断したので、微妙に色が違ったそうだ。

次は1921年建立のリンカーン記念堂へ。36本のギリシャ神殿風柱がある建物に、リンカーンの大理石像が鎮座している。大理石はコロラド産。36の数字は、リンカーンが暗殺された1865年の州の数。今より14州も少なかった。入って左側の壁には、有名な「人民の人民による人民のための」の演説が刻んである。リンカーン記念堂の入口に立つと、ワシントン記念塔と国会議事堂がまっすぐに並んで見える。計画的に作られたとはいえ、なんという美しさ。

もっと感動したのは、記念堂へ上る石段の途中に「Ihave a dream」の刻字を見つけたことだ。1963年8月28日、奴隷解放宣言をしたリンカーンをまつる記念堂の前で行われた演説。奴隷解放宣言から100年経っても差別がある。その事実を切々と訴えたキング牧師の演説は、この場所で行われた。

 
リンカーン記念堂
36本のギリシャ風柱がある
 
リンカーンの像
コロラド産の大理石
 
リンカーン記念堂の階段
キング牧師が演説をした場所


途中経過は長くなるから省くが、内外に公民権運動の盛り上がりをアピールするために、公民権運動団体を中心にリンカーン記念堂前の広場に集結する「ワシントン大行進」が行われた。キング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上が広場に集まった。さすがに警察も手が出せなかったのか、放水や銃による脅しはしていない。

ワシントン行進とそれに続くキング牧師の演説は、バスの中でフィルムを、アトランタでは写真を、帰国後にパソコンのYOU TUBEで見た。20万以上の人々の熱気、20万には白人もいる、著名人もいる。こんなに感動的な場面を久しぶりに見た。キング牧師が暗殺されたメンフィス、生まれ育ったアトランタと見てきて、ここがかの有名な演説をした石段かと思うと、ただの石段とは思えなくなる。

有名な演説の一部だけを抜粋する。

私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です

 ○私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢です。

 ○私には夢がある。私の4人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢です。

キング牧師による地道でありながら積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がった。ついにジョンソン大統領の時、1964年7月2日に公民権法が制定された。建国以来200年近くアメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げた。この年、キング牧師は35歳でノーベル平和賞を受賞している。

差別は心の中の問題だからやっかいである。でもこの時から40数年後、アフリカ系のオバマと奴隷を先祖にもつファーストレディーが誕生した。暗殺されなければ、キング牧師はオバマの大統領就任を見る事ができただろう。生きていれば今年はまだ85歳なのだから。見せてあげたかった。もっとも、キング牧師には女性関係のスキャンダルがたくさんあったらしい。あの名演説が台無しになった可能性もある。

スキャンダルはともかく、彼の誕生日1月15日に近い1月第3月曜は「マルティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー」という祝日になっている。生前の功績から祝日に制定されたのは、他に、クリストファー・コロンブスとジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーンしかいない。

昼食はバージニア州アーリントンのレストランでとった。ワシントンDCとはポトマック川をはさんでいるだけで、違う州に移動したという感覚はない。左写真は、ポトマック川とワシントンDC。アーリントンにいるのに、有名なアーリントン墓地に寄る時間はなかった。

レストランでアメリカ人ご夫婦と話した。元検察官だったという品のあるご主人と日本人の奥様。退職しているので、毎日このレストランに来ては、日本人がいると会話をしているそうだ。経歴からいえばすっかりアメリカ人のはずだが、化粧もガイジンぽくないし、ツンとしたところもない。「あれがウオーターゲート事件があったホテル。あれがジョージタウン大学」と対岸に見えるワシントンDCのビルを説明してくれた。

午後はワシントンDCに戻り、スミソニアン博物館のひとつ航空宇宙博物館を見学した。スミソニアン博物館は分野ごとに15もある。そのなかの1番人気が航空宇宙博物館。スミソニアンという名前は、ジェームス・スミソンというイギリスの科学者が、50万ドルも寄付してくれたからだ。1835年に亡くなったスミソンは、遺産を託す親戚がいなかったので、「人類の知識を普及向上するために全財産をアメリカに譲る」という高邁な言葉を言い残して50万ドルを寄付した。「日本国に寄付する」と言ってくれればよかったのにね。当時の日本は鎖国中だから、あり得ない話だけど。

1846年にスミソニアン協会を設立し今にいたる。15の施設合計で職員数6000人、ボランティア6000人の規模。1億4000万点もの展示品がある。

 
地球に帰還した
アポロ11号司令船

 
日本の零戦も目立つ場所に
 
初めて飛んだ!
ライト兄弟の飛行機

宇宙博物館の入口の目立つところに、アポロ17号が持ち帰った「月の石」があった。ヒューストンでも見たし、外見は単なる石だからどうでもいいのだが、一応触ってみた。ガラス張りの館内の天井を見上げれば、由緒ある飛行機がつりさげてあり、飛行機ファンにはたまらないだろう。

「絶対に見て欲しいのは、ライト兄弟の飛行機とアポロ11号の司令船。日本の零戦もあります」と言われたので、この3つだけは押さえた。初めて大西洋を横断したリンドバーグの単葉機セントルイス号もあった。1927年、リンドバーグがニューヨークからパリまで飛んだ時の映画「翼よあれがパリの灯だ」は、面白かった。考えてみると私はずいぶんアメリカ映画に影響されて育ってきた。アメリカ各地を旅行して今さらのように映画の影響力に驚いている。

ほかに目を惹いたのは「THE  ROAD TO JAPAN」という太平洋戦争当時のアメリカ空軍の活躍の展示だ。日本の軍人の写真もたくさんあり、貴重な資料に思えた。日本ではどこで見る事ができるんだろう。なんせ旅行中は時間に追われ、ゆっくり見ることができない。

     <ワシントンのタイソンズコーナーのクラウンプラザ泊>    (2015年10月2日 記)

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