南部アフリカの旅 2
マンデラさんとケープ半島

2015年3月24日(火)―3日目

部屋から見たテーブルマウンテン朝陽に輝くテーブルマウンテンが、ホテルの部屋から見えた。本当にテーブルのように平らな山(左)。

今日は、ネルソン・マンデラさん(1918年〜2013年)が18年間も収容されていた監獄の島・ロベン島に向かう。今回の旅はいつになく数社のコースを比較した。ロベン島が入ってないツアーもあるが、どうしてもここに行きたかったのでK社のツアーを選んだ。

ホテルから10分ほどのウオーターフロントから船が出る。1時間ほどでロベン島に着いた。アパルトヘイト(人種差別政策)時代に政治犯の黒人男性が収容されていた島だ。1959年の開所から1991年に解放されるまでの30年間に、約3000人が収容されていた。

島では勝手な行動は許されない。同じ船に乗った全員が、バスでの島内一周と刑務所見学のツアーに組み込まれてしまう。 ロベン島は絶海の孤島のような所にあると勝手に想像していたが、テーブルマウンテンの頂上から見えた。意外に近い。今も200名の住民が住んでいてクリニックや郵便局もある。

石切り場島内をバスで1周するガイドの女性は、説明が上手。英語の説明すべてを聞き取る能力はないが、その口調から熱意が伝わってくる。マンデラさんが働いていた石切り場での説明には一層熱が入る。さえぎるものがない炎天下での生産性のない労働がいかにつらかったかを、切々と語る。石切り場での作業で目を傷めたので、後に大統領になった時はフラッシュが禁止された。
 
石切り場の一画に大学があった。といっても洞穴みたいな所(左)。政治犯の中には無学の人もいたが、教養ある人が学問を教えた。ここで学んだ人の中から、今は政府の機関に勤めている人も出ている。

バスを下りると次は刑務所めぐり。刑務所は集団房と独房に分かれている。重要犯人は独房に入らねばならない。今日の案内人は、かつての政治犯で集団房のFセクションに入っていたという陽気な黒人。マンデラさんの歩く真似をして笑わせながら回る。

ハイライトはマンデラさんが入っていたBセクションの独房だ。マンデラさんの囚人番号は64446。最初の64は1964に入所したことを意味する。446は1964年に島へ送られた446番目の囚人という意味。彼は終身刑の判決を受けた後に、ここに送られた。この時46歳。

高い所に30センチ四方の鉄格子のついた窓が付いている。扉は内側が鉄格子、外側が厚い木の扉。日中は内扉だけが施錠され、夜は木の扉も閉められた。この狭い独房に18年間もいた。1ヶ月に1度は家族と面会できたとはいえ、本人も家族も18年という長い年月を耐えぬいた。

ロベン島 ロベン島 ロベン島

集団房の一画

 
 
かつての政治犯が
今はガイドをしている

ネルソン・マンデラさんが
入っていた独房
 

この独房を出た後、9年間はケープタウン近郊の一軒家の刑務所に入った。この頃になると国際社会からの非難が高まっていたので、待遇が改善されたようだ。監視つきとはいえ、買い物なども出来かなり自由に行動できた。とはいえ、46歳の時から27年間もの収容。解放された時には73歳になっていた。

マンデラさんはその後大統領に就任しているが、独房にいた多くの人が政府の要人になっている。さもありなんという気はする。アパルトヘイト終了後は国民ひとりひとりに選挙権が認められたので、マンデラさんが引退後も数で優位に立つ黒人が大統領に選ばれている。でも白人を政権から追い出したわけではない。少なくともマンデラさんは、白人も黒人も平等な人種融和の国づくりを目指していた。

カリスマ政治家のほとんどがそうであるように、マンデラさんも多くの名言を残している。1964年、ロベン島に収容される前の法廷で次のように演説した。

私は白人支配と闘ってきた。また黒人支配とも戦ってきた。私はすべての人々が仲良く、平等の機会をもって共に暮らすことのできる民主的で自由な社会という理想を大切に抱いてきた。それは私がそのために生き、実現させたいと思っている理想である。しかしそれはまた必要ならばそのためなら死んでもいいと思っている理想でもある」 釈放後の演説でも、これを繰り返している。

昼食はウオーターフロントのしゃれたレストランでとった。

ワイナリー午後はケープタウンから北東へ30分ほどのワイン・ランドの拠点ステレンボッシュに行った。南アフリカのワインは、オランダ人が苗を持ち込み1659年に成功したことに始まる。ブドウ栽培に適している地中海性気候だからだ。ワイナリーが600以上、ブドウの品種も6000種ある。

たくさんあるワイナリーのひとつ「ドルニエ」(左)でテイスティング。ワイナリー見学は下戸の私には嬉しくも楽しくもない。渋みがどうの、香りがどうのという説明は上の空。5種類ほどのテイスティング時間も苦行に等しいが、建物も庭もレストランも垢抜けしているのが慰めだ。帰国後に旅行社からドルニエのワインを1本送ってくれることになっているので、ここでは買わなかった。

ケープタウンに戻ろうとしたらバスが故障。駆動用のベルトが切れて動かない。修理業者を呼び寄せて直るまでの間、ワイナリーでお茶を飲んで過ごした。予定していたウオーターフロントでの買い物は明日に回すと言う。ハプニングは必ず客にしわ寄せが来るので、お茶代をバス会社が払うのは当然だ。

なんとか夜の食事時間に間に合った。夕食も昼食同様、ウオーターフロントの別のレストラン。夕食時の飲み物代は、現地の旅行会社が払ってくれた。K社は南アフリカにたくさんの客を送り込んでいるので、現地会社も気をつかっているようだ。

夜景食事後、シグナルヒルに登りケープタウンの夜景を見た。青色やどぎつい赤の照明はない。オレンジ色の優しい照明が広がっていた。夜景を眺めた後にふと見上げた空に、南十字星を見つけた。阿部さんは「南十字星は5つの星からなっていますが、4つしか見えません」と言う。星に興味があるわけではないが、南半球だけで見えるサザンクロスには詩的なものを感じる。

          <ケープタウンのHEERENGRACHT FORESHORE 泊>

3月25日(水)-4日目

今日も阿部さんのガイドで、ケープ半島をめぐる。オットセイのいるドイカー島行の船が出るハウトという港まで海岸線を走る。今日も晴天。テーブルマウンテンも海も輝いて見える。「3日間の滞在中、一度もテーブルマウンテンが見えなかった」という旅行記を旅の前に読んだだけに、天気に恵まれた幸せを感じる。

途中のクリフトベイは、夏場でも風が穏やかなので高級住宅地で、平均売買価格は1億5千万円。南アフリカでは破格の値段だが、ヨーロッパの富豪が別荘として買っている。もともとケープタウン周辺は地中海性気候なので1年中住みやすい。夏でも海水温が低いので海水浴をする人はいないが、サーフィン愛好者が多いそうだ。

オットセイドイカー島までは船で10分ほど。島には上陸できないが、ゆっくり島を一回りしてくれるので、写真を撮る時間は充分ある。ときどき顔をあげてカワイイ仕草をするものの、ほとんどのオットセイは寝転がっているし、岩の色と身体の色が似ているので、良い絵にはならない(左)。

再びバスに乗り、チャップマンズ・ピークという10qのドライブウェイを走った。なぜか10時には閉鎖するので、滑り込みセーフ。午後は風が強くなるので閉鎖するのかもしれない。

最近大きな山火事があったためか、道路の両側の樹木は黒っぽく焦げている。煙草の投げ捨てによる火事がいちばん多い。「ヘリコプターの消火では追い付かず、テーブルマウンテンが丸一日燃え続けたこともあります。でも山火事は悪いことばかりではないんです。ある周期で山火事が起きると、植物のためにはいいんです。土に化学変化が起きてプロテアなどは生き返ります」と阿部さんは話してくれた。

サイモンズタウンに入った。1687年、オランダ総督のサイモンがこの地に港を作ったので、彼の名が町の名になっている。1814年にオランダに代わってケープ半島をおさめたイギリスが、海軍基地を建設。今は南アフリカの海軍基地がおかれている。海軍の制服を着た人が大勢歩いていた。私たちの目的は海軍の町ではない。町の中心からも歩いて行けるほどのボルダーズ・ビーチのペンギンを見に行く。

1985年に数羽いたのが始まりで、今は保護していることもあって5万羽もいる。ペンギンと言うと南極のペンギンを思い浮かべるが、ここのペンギンは、暑さにも耐えられるケープペンギン(別名アフリカペンギン)だ。体長は30pから40pと小柄。

ケープペンギン ケープペンギン ケープペンギン


動物園以外でたくさんのペンギンを見るのは初めてだが、予想以上に可愛かった。じっと動かずに一点を見つめている哲学者風のペンギンもいれば、片時もじっとしていないで海辺をチョコチョコ走り回り、かと思うと海に入ったり出たりを繰り返しているペンギンもいる。いつも4〜5羽が固まっているのもいる。卵を抱いているお母さんペンギンもいる。こんな風に多様な姿を見せてくれるとは思わなかったので、何枚もシャッターを押した。

帰国後の4月15日の新聞に「アフリカペンギンの危機」という囲み記事が載っていた。「ケープペンギンは減り続けている。卵の乱獲やエサの減少で数百万羽いたが今は5万羽。今は国際自然保護連合の絶滅危惧種に指定されている」。現地ではこのような説明を受けなかったが、特派員の記事だから正しいのだと思う。

ボルダーズ・ビーチでの昼食は、ロブスターだった。塩茹でしたものにレモンでもかければグーだが、味付けが私たちにはなじまない。郷にいれば郷だから仕方ない。

バスはケープ半島を走り続ける。半島南部は7750fもの自然保護区になっているので、珍しい植物や動物の宝庫だ。野生のダチョウ、ボンテボックという鹿の一種、マントヒヒなどが車窓から見えた。

保護区の道路の終点でバスを下車。ケーブルカーに乗り、さらに10分ほど上るとルック・アウト・ポイントという展望台がある。標識に、ニューヨークまで12541q、ロンドンまで9623q、リオデジャネイロまで6055qと出ていた。ブラジルがこの中ではいちばん近い。ルック・アウト・ポイントの灯台は霧が多くて使い物にならないので、少し低い場所に新しい灯台を作った。そこがケープポイント。

喜望峰展望台を歩いて降りて、喜望峰(左)に向かう。バスでも行けるが、「喜望峰ハイキング」がツアーの売りのひとつになっている。喜望峰はアフリカ最南端と言われてきたが、もっと南にアグラス岬があることが分かり、今では最南西端の岬と呼ばれる。

小学生の頃から喜望峰の名前は聞いている。バーソロミュー・ディアスが1488年に喜望峰を発見し、バスコ・ダ・ガマが1497年にインド航路を発見したことは歴史教科書に載っている。そこを歩くというだけでワクワクしてくる。1時間ほどのハイキングだが、ごつごつしているので意外に歩きにくいし、風が強い。でも空も海も青い。歴史的ポイントを歩いている満足感があった。

ケープタウンの街に戻り、中心部を車窓から見学。かつてイギリスに支配されていた頃の重厚な国会議事堂や図書館や博物館が林立している。シティホールのバルコニーは、マンデラさんが1990年に出所後に挨拶した所。歩いている人のほとんどが黒人ということをのぞけば、街並みはヨーロッパだ。

マレー地区下車見学はマレー地区(左)。オランダが統治を始めたころに労働者として連れてこられたマレー人や東南アジア人の子孫が住む地区をマレー地区と言う。カラフルな壁の家が並ぶ。字を読めない人のために、色で店の種類などを示したことに始まる。今は必ずしも奴隷の子孫ばかりが住んではいないようだが、イスラム教のモスクがあるなど、独特の雰囲気を残している。

きのうバス故障のために行きそびれたウオーターフロントのショッピングモールへ。雑貨や衣類はいらないので、スーパーマーケットで、ドライフルーツとルイボスティーを買った。ルイボスティーは、南アフリカでしか栽培されていないマメ科の針葉樹を紅茶みたいにしたもの。添乗員の大阪さんが「現地の人に聞いたのですが、お肌もすべすべしてくるそうです」と勧める。いまさらお肌がすべすべになるなど期待できないが、南アフリカの思い出に買う事にした。

夕暮れのテーブルマウンテン買い物の時間が余ったので、夕暮れのテーブルマウンテン(左)を見ながら過ごした。思えば初日から今日までずっと姿を見せてくれたテーブルマウンテン。今は少し雲がかかっている。まさにテーブルクロス。

夕食は中華料理。まあまあの味。      
  <ケープタウンのHEERENGRACHT FORESHORE 泊>

   (2016年8月2日 記)



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