オーストリアの旅3 2011年6月23日(木)-5日目 ホテルから1時間弱走ったところに、クリムルの滝(左)があった。3段滝で、全体の落差は380メートル。水面は氷河だというが、滝の水を見ただけでは区別できない。傍まで行ったら、水しぶきどころではない、大嵐だ。全身が濡れる寸前で撤退した。 次はゲルロス峠(1507メートル)を超えて、チロル州に入る。牧草地と山小屋風の家が連なる車窓からの景色は、なんとも言えない。 ゲルロスの町で、「聖体の日」という宗教行事に出会った。この旅行会社の良いところは予定外でも、バスを止めてくれることだ。民族衣装の男女が司祭の話の後に、鉄砲の音を響かせた。なんのお祭りか?と聞いてみたが、山間部のせいか英語が通じない。通じたとしても聖体の日など、説明を聞いてもわからなかったろう。
男性の場合は、チロリアンハット・ベスト・吊り半ズボン・ハイソックスが一般的だ。 マイヤーホーフェン駅でSL列車・ツイラータル鉄道に1時間半ほど乗車。夏のシーズンだけ、SLを運行している。本物のSLに何度も乗っているので珍しくもないのだが、若い人には人気があるのかもしれない。ツイラータル渓谷を走る村々はきれいだと聞いていたが、雨が降っているのでほとんど何も見えない。 イエンバッハ駅で下車後、バスでインスブルックに向かった。今回の旅で聞いたことのある宿泊地は、ウイーンとザルツブルクとグラーツと、このインスブルックだけだった。インスブルックは、1964年と1976年の2度もオリンピックが開かれたので、いつの間にか頭に入っている。チロル伯爵が治めていたが、1363年にハプスブルク家の領土になった。 ホテルに荷物を置いた後に、日本人ガイドと一緒にインスブルック市内見物。昨日までは天気に恵まれたが、今日は傘を差しての見学だ。ホテルの目の前に凱旋門がある。マリアテレジアの息子とスペインのマリー王女の結婚を祝って建てたが、建設中にマリアテレジアの夫フランツシュテファンが急逝。そのため、南面には「生と幸福」、北面には「死と悲しみ」のモチーフが刻まれている。
凱旋門からメインストリートのマリアテレジア通りを歩く。ガイドが「晴れていればノルドケット(北の鎖)連峰が見えるんです。こんなに高い山が迫っている州都はインスブルックだけです」と説明するが、何も見えないので想像するしかない。 聖アンナの柱(1703年、バイエルン軍の侵入をチロルで撃退した記念の柱)・州庁舎・、ゴールデンアドラーという宿屋・王宮・王宮教会などを外観だけ見て歩く。ガイドの時間が限られているためか、外観だけでしかも早口の説明なので、あまり心に響かない。 散策の中で、黄金の小屋根は、2657枚の瓦が金色に光っているので、雨でも目立つ。本物の金に見えるが、銅板に金箔を貼ったものだという。ハプスブルク家の権力を誇示するために、マキシミリアン1世が1500年頃に作った。バルコニーにはマキシミリアン皇帝の2人の妻のレリーフがある。マキシミリアンはハプスブルクの皇帝の中でも有名で「汝結婚せよ」の家訓を残した。ハプスブルク家はこの結婚政策によって領土が拡大した。 中に入った聖ヤコブ教会は豪華な。バロック様式。祭壇にあるクラナッハの「救済のマリア」は、傑作だ。 ガイドによる案内が終了後、フリータイム。夕食までには2時間近くあったが、雨なので心が弾まない。でも2度と来ることはなかろうと、ぶらぶらしていたら「フクシマ!」とヤジごとき口調の言葉が浴びせられた。20数名の日本人が団体で歩いていたら、おそれをなして、投げかけない言葉かもしれない。私たち2人だけだったので、ヤジを飛ばしたかったのだろう。どこの国もこんな輩はいるが、フクシマがヤジになってしまったことも事実だ。 <インスブルックのヒルトンホテル泊> 6月24日(金)−6日目 出発までに時間があったので、ほぼ昨日と同じところを歩いてみた。晴れて山が見えることを期待していたが、昨日と同じような小雨が降っていた。 ガイドが「丸裸のイエス像が橋の上にあります。信者たちは今でも反対しているんですよ」と説明していたのを思い出して、イン川にかかる橋まで行ってみた。一糸まとわぬイエス像(左)が立っていた。ユダヤの民を束ねたダビデ像もそうなんだから、騒ぐ方がおかしいと思うが、信者の心境は分からないでもない。 今日はチロルの町や村をめぐることになっている。インスブルックを出たバスは、15分ほどでハル・イン・チロルに着いた。ハルの語源はギリシャ語の塩を意味するハルス。
(2012年9月2日 記) 感想・要望をどうぞ→ 次(チロルの村からザルツブルク)へ オーストリアの旅1へ ホームへ |