ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅2 2012年10月6日(土)―3日目 ベラルーシのブレスト(ベラルーシの旅1の地図参照)にいる。今日のガイドはオレグさんという男性。国立公園に向かう沿道の村には、第2次世界大戦までユダヤ人が暮らしていた。その場所に、ユダヤ人狩りで犠牲になった人の慰霊碑が、たくさん立っていた。ヨーロッパのどこに行っても「ユダヤ人が・・」と言う話が出てきて、そのたびに痛ましく思うものの、私にはなすすべがない。 ブレストから北70キロにあるベロヴェシュカヤ・プシャ国立公園は、自然遺産に登録されている。隣国ポーランドをも含む原生林で、面積は930㎢もある。ポーランド・リトアニア公国の王やロシア皇帝の狩猟の場でもあった。今でもベラルーシ国土の40%が森林だという。
1910年代にこの原生林を拠点にしてロシアと戦っていたポーランド軍が、食糧として700頭ものバイソンを殺したので、絶滅してしまった。その後、ドイツとスウェーデンからもらった2頭のメスと1頭のオスを放し飼いにして野生化したところ、今は400頭の野生のバイソンが生息しているそうだ。たった3頭ではじまったバイソンファミリーが、今や400頭。パンダよりずっとたくましい。 保護ゲージにいたバイソンは、森の中でばったり出会ったら怖い感じ。日本の動物園では見た記憶がないので、初めての対面かもしれない。 原生林そのままの方がいいのにと私は思うが、人寄せのためだろうか。サンタクロースの家が作られ、トナカイのソリも置いてある。「冬になると大勢の子供連れがきます」とガイドは嬉しそうに話した。 昼食後に公園から20キロ離れたカメネツ要塞に行った。13世紀にウラジミール王が建設した。ロンドン塔のような城があったらしいが、今は高さ30mの1つの塔だけが残っている。側には、ウラジミールとバイソンの像があった。 次の見学地ブレスト要塞は、公園のようになっていて要塞というものものしさはない。土曜のせいか家族連れや学生がたくさん訪れていた。左は中学生か高校生。美人なので撮らせてもらった。 この要塞は1842年、ニコライ1世がロシア帝国の西の要塞として作ったことに始まる。16000人の兵士とその家族が暮らせるほど大きな要塞で、病院や学校や教会もあり町としての機能も持っていた。
5時半ころホテルに到着後、夕食までの時間を利用して繁華街に行ってみた。カメネツ要塞を築いたウラジミール王やポーランド・リトアニア公国の富豪ラジビルの像が、モニュメントの周りを囲んでいた。 ウラジミールもラジビルも、日本にいる時は聞いたことがない人物だった。でも、2日間のガイドの説明がなんとはなしに耳にこびりつき、親しみのある人物に変わる。不思議なものだ。 ガイドのオレグさんが「是非とも見て欲しい」と勧めてくれたのが、街路灯のランプの点灯だ(左)。19世紀を再現し、2年前から始めたという。 <ブレストのヴェスタ泊> 10月7日(日)-4日目 今日はベラルーシのブレストから、ウクライナのリヴォフ(ウクライナの旅1の地図参照)まで約300kmを移動する。300kmの移動に丸1日かかるのは、道路が悪いばかりではない。国境を通るので、出国と入国に時間がかかるのだ。 ベラルーシの国境の町でパスポートを回収された。国境の街の係官はなぜかいかめしい。団体だから気が楽だが、個人で国境を超えねばならない場合はさぞ緊張するだろう。40分ほどで出国手続きが終わり、次はウクライナの係官にパスポートを渡す。入国手続きも30分足らずで終わった。ベラルーシとウクライナは、21年前まではソ連という同じ国に属していた。「国境なんて素通りでも良いのにね」とつぶやいてみるが、どうなるものでもない。 ウクライナは日本の1.6倍の広さに、約4560万人が住む。この旅は、近所に住んでいるウクライナ人がきっかけだった。日本人と結婚して10年のカテリーナさんは日本語が堪能なうえに、着物の着付けもできるし茶道もたしなむ。彼女が育った地・ヤルタに行ってみたいとふと思いついた。 ウクライナに入国してからの車窓の景色は単調だ。高い雪山が見えるわけでもなく、時折大きな町が表れるわけではない。「ウクライナの黒土地帯では野菜や小麦がよく穫れる」と地理で習った気がするが、野菜畑を見ることもなかった。ひたすら平原が続く。 コベルという町のレストランで昼食。町のカラーは水色。言われてみればドアや塀を青くしている教会や家がたくさんある。ここのレストランのウェイトレスはカワイイ民族衣装を来ている(左)。 次(ウクライナのリヴォフからキエフへ)へ ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅1へ ホームへ |