ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅3
 ウクライナのリヴォフからキエフへ

2012年10月8日(月)−5日目

ウクライナのリヴォフにいる。出発前に、ホテルの真ん前にある公園を散歩した。落ち葉が舞う公園を通勤の人が足早に通り過ぎていく。考えてみると、ヨーロッパを秋に訪れたのは初めてだ。

今日は市内を見ることになっている。まず聖ゲオルギ教会。門の左に正教の聖人、右にカトリックの聖人の像がある。この事からもわかるように、この教会は正教とカトリック教が混合したユニエイトだ。ローマ教皇の首位権は認めているが、正教会の伝統は守っている。ルーマニアのハンガリー国境に近い所にも、ユニエイトの教会があった。リヴォフもポーランド国境に近い。

両派の教会 ロココとバロック イエスを包んだ布
 
正教の聖人とカトリックの
聖人が並んでいる
両派混合の教会

 
内部はロココ様式や
バロック様式で飾られ
けばけばしい

 
十字架から降ろしたイエスを
包んだ布のコピー
本物はどこにあるのか知らない


連日同じような教会を見学するので写真がないと忘れてしまうが、この教会は撮影OKだったので旅人にはありがたい。13世紀のころは木造だったが、今はロココやバロックでけばけばしく飾られている。ミンスクの教会にあったイエスを包んだ布のコピーが、ここにもあった。コピーとはいえ、信者にはありがたいのだろうな。

世界遺産に登録されている旧市街を散策した。「チェコのプラハ、ポーランドのクラコフに似ている」とガイドブックには書いてあるが、プラハの美しい街並みには適わないような気がする。でも石畳の上をトラムが走る光景は、中欧の古都を思わせる。

リヴォフは、ポーランドやオーストリー・ハンガリー帝国に支配されていたこともあり、ドイツ人が主流を占めていた時代もある。スラブ民族系のウクライナ東部とは雰囲気や考え方が違っても当然だ。反ロシアの考えを持つ人も多く、レーニン像は取り払ってある。ウクライナでもっともウクライナ色が濃いのは、首都のキエフではなくこのリヴォフだと言われる。

大部分の市民がウクライナ語を話し、ロシア語を話す人はほとんどいないそうだ。でも旅の間に芽生えた「ウクライナらしさってなんだろう?」の答えは、とうとう見つからずじまいだった。

ガイドのイゴールさんは36歳。誠実な人柄が伝わってくるナイスガイで、英語の発音もきれいだ。その彼は「ソ連から独立したのは僕が15歳のとき。社会主義が終わってとってもハッピー」と話していた。彼のように有能な若者はハッピーだが、年金生活者の多くは昔の方が良かったとほざいているらしい。過渡期を上手に生きられない人は、いつの世どこの国にもいる。

13世紀にリヴォフを大きくしたのはダニーロ王だ。息子の名「レヴ」をとってリヴォフと呼んだ。レヴはライオンという意味。それもあって、この町にはライオンの彫刻が3000以上ある。私たちもわずかな散策で100個以上のライオン像を見つけた。建物に張り付いていたり、ベンチの飾りとして付いている。

ダニーロ王 ライオン ライオン
 
リヴォフの町を
大きくしたダニーロ王

 
この町にはライオン像が
3000以上ある

 
ライオン像がついている
ベンチは風格がある

マーケット広場はかつての商人の街で、窓が3つに統一されている。3つ以上の窓を持つ間口が広いビルは、高い税金を支払わねばならない。間口によって税額が決まるのは、ヨーロッパ各地で聞いている。京都の町家のうなぎの寝床風の作りも、同じ発想だ。

珈琲店この広場にあるコーヒーショップで、旅行会社がコーヒーをご馳走してくれた。店の地下は炭鉱のような作りになっている。コーヒー豆はもちろん輸入しているのだが、「豆は地下から湧き出ているんです」と説明する。それを信じたくなるほど、雰囲気のある地下空間を作っている。「リヴォフでいちばん印象に残ったのはここだ」と言う人もいた。

ウクライナでいちばん古い薬局に寄った。博物館も兼ねている。ここでいかにも旅慣れたMさんがプロポリスをたくさん買った。ミツバチが採集した粘着性の物質で、風邪やガンの予防にもなるそうだ。Sさんも同じことを言う。ふたりとも「日本では1瓶3000円以上するのよ。だから外国に来ると買うことにしている」と言う。ウクライナではわずが80円ぐらいだ。「80円なら効かなくても構わないな」と思い、私もその後薬局を見ると買い足して6本ほど買った。

1900年建築のオペラバレー劇場を外観だけ見た。オペラバレー劇場はこれから行くキエフやオデッサにもあるが、いつも外観だけ。1度ぐらいは実際のバレーを鑑賞したかった。それが叶わなくても、非常に豪華だという内部だけでも見学したかった。ガイドのイゴールさんは「リヴォフには23の大学、76の教会、40の美術館・博物館、7つの劇場があります」と誇らしげに話すが、そのどれにも入場しなかったので、少々の不満が残った。

昼食後に民族建築博物館に行った。西ウクライナの各地から運ばれた木造の家や教会が、100も点在している野外博物館だ。日本にも、江戸時代の民家を集めた野外博物館の「民家園」がある。「あるべき元の場所にあってこその民家だ」と思うものの、短期間の旅行者にはありがたい。カルパチア山脈の山中から運んだものが多いが、実際はそんな山中には行けないし、この博物館も森の中にあり雰囲気は申し分ない。

木造建築 木造建築
 
西ウクライナの各地から
運ばれた木造建築

 
日本の藁ぶきとそっくりな
家もある

今日はウクライナの首都・キエフまで飛行機で移動することになっている。ところが、道の両側に乗用車が止まっているために大型バスは通れなくなった。クラクションを鳴らしても車の持ち主は誰も現れない。飛行機の出発時間があるので私たちも焦った。なんとか別の道を探してすり抜けることができたが、こんなことをしているようでは観光客を呼び込めないだろう。車が増えたのに、駐車場のインフラが整ってないのだ。警察も違法駐車に見て見ぬふりだという。数年前のロシアでも観光施設と駐車場が隣接していなくて、10分以上歩いたことを思い出した。

16時55分(リヴォフ発)→ウクライナ航空で18時(キエフ着 )            <キエフのルーシ泊>

 

10月9日(火)-6日目

今日は女性ガイド・イリーナさんの案内で、首都のキエフ市内(ベラルーシの旅1の地図参照)をめぐる。ミンスクのガイドもイリーナさん。ありふれた名前なのかもしれない。 

3人兄弟と妹5世紀にポリャーネ族の3人兄弟と妹が町を作り、兄弟の長男の名前がキーだったことから、キーの町、キエフとなった。3人兄弟と妹の像が、ドニエプル川を背景に建っている。(左)

9世紀にキエフ・ルーシ公国(ルーシは東スラブの意味)を建国。10世紀にウラジミール大公が正教を国教と決めたころから発展した。11世紀のヤロスラフ賢公のときが最盛期だ。当時はモスクワ公国をしのぐ力を持っていたが、モンゴルの来襲を受けて次第に衰退していった。

まずペルチュスカヤ大修道院に行った。東スラブでもっとも長い歴史をもつ修道院で、正教徒にとって最大の巡礼地。ここはカメラ代が1000円もかかる。夫にカメラ権を譲ったのだが、見学には3時間もかかった。1000円を吝嗇ることはなかったのだ。

ベルチュスカヤ修道院 ベルチュスカヤ修道院 ベルチュスカヤ修道院
 
ベルチュスカヤ修道院の
教会
 
要塞のような
ベルチュスカヤ修道院

 
ドニエプル川が眼下に見える


修道院というと、修道士たちがひっそりと修業している場を想像するが大修道院の名のとおり敷地も広い。要塞のような作りになっていて、むしろ華やかだ。三位一体教会、ウスペンスキー聖堂、大鐘楼、歴史文化博物館・・と覚えきれない。

博物館には、スキタイ民族の装飾品を展示してある。スキタイは、紀元前6世紀から紀元前3世紀に活躍した遊牧民族。3人兄弟らがキエフを建設する前に、キエフ周辺でも活動していた。スキタイ民族の装飾品はすべて金製で、なかでも黄金の首飾りは目玉だ。21金で重さが1150gもある。細工も細かい。遊牧民族は物にこだわらないのかと勝手に考えていたが、どうしてどうして、職人のこだわりと芸術性を感じる。

上の修道院から下の修道院に移動した。下の修道院には、実際に修道士たちが暮らしている。見学したのは地下墓地だ。事前に言われたことは、懐中電灯と頭を隠すスカーフと腰に巻くスカーフを持参することだった。懐中電灯がなければ歩くのさえ困難な暗さのなかで、46体のミイラを次々見て歩く。エジプトの考古学博物館のように、そのままのミイラが置いてあるわけではない。ミイラマスクをかぶっているので、本物のミイラかどうかも分からない。正教徒にとってはお参りの対象だが、私は気持ちが悪いだけだった。
         (2013年11月16日 記)

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