ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅4 
 キエフからオデッサへ


2012年10月9日(火)−6日目

黄金の門昼食後もキエフの市内観光が続く。まず黄金の門(左)へ。黄金の門というから金色に光っているのかと思いきや、1982年再建の赤レンガづくりだ。ヤロスラフ賢公の像も立っている。

キエフの町に入る3つの門のうち一番強固な門だったが、1240年にモンゴル軍により破壊された。「ムソグルスキーの組曲“展覧会の絵”に出てくるキエフの門はこの門ですか」とMさんが質問。「そうですそうです」とガイドは嬉しそうに答えた。キエフの門など聞いたこともなかった私は、少し恥ずかしかった。

聖ソフィア大聖堂次は世界遺産の聖ソフィア大聖堂(左)へ。ヤロスラフ賢公が建築。内部のフレスコ画とモザイク画は当時のままだとか。色あせていたが、ヤロスラフの頃の画だと思うと素直に感動できる。感動といえば、ここで聞いた賛美歌の歌声が忘れられない。数人の女性が生で歌っていた。天使の歌声とはこういう声なのだとひとり納得。

ヤロスラフ賢公の柩もあったが、骨はドイツ軍に奪われて行方不明とのこと。自分たちの祖先でもないヤロスラフの骨など欲しいのだろうか?なんでもドイツ人のせいにしているような気がしないでもない。

この旅が始まって実質5日目なのに、ナチスドイツの野蛮行為は何度も耳にした。ドイツ人観光客にも同じような説明をするのだろうか。

聖ミハエル黄金ドーム修道院聖ソフィアと向かい合うようにして建つのは、聖ミハイル黄金ドーム修道院(左)。ソ連時代は宗教が否定されこの寺院も破壊されたが、15年前に元の姿に復元した。

すぐ側に建つ外務省のビルは、ソ連時代のもの。社会主義の権力を見せつけているような巨大なビルだ。

5時からドニエプル川クルーズに出発した。ドニエプル川はヨーロッパ3位の長さの2285km。源流はロシアで、ベラルーシとウクライナを経て黒海に注ぐ。

ドニエプル川 ベルチュスカヤ修道院
 
ヨーロッパ3位の長さ
ドニエプル川のクルーズ

 
クルーズの船から見た
ベルチュスカヤ修道院
船からだと全景が見える

午前の観光で見たペルチュスカヤ大修道院の金色の屋根が、きれいに見えた。こうして別方向から見ると、修道院の広さが実感できる。3人兄弟と妹の像も見えた。パリのセーヌ川クルーズの時もそう思ったが、自分が見てきたスポットを別な角度から見るのは、とてもワクワクする経験だ。

バスで前の席に座っていたので、ガイドのイリーナさんと話すチャンスがあった。英語を流暢に駆使して大学の講師を務めるイリーナさんでさえ、給料の半分が家賃で消えると嘆いていた。社会主義時代は住宅は無料で支給されていたが、今は家賃が高いのだという。イリーナさんは大学の観光学科の講師もしている。1つの仕事だけでは生活していけないので、イリーナさんのように兼務している人が多い。「ミドルクラスは苦しいのよ」と彼女は強調した。でも家庭を持っている女性が働ける環境は整っているようだ。日本の女性に比べ、幸せかもしれない。
                                        <キエフのルーシ泊>

 10月10日(水)-7日目

朝早い飛行機に乗るので、6時半にはホテル出発。

8時25分(キエフ発)→ウクライナ航空で9時15分(オデッサ着)

オデッサの空港に降りたら真っ青な空が見えた。これまでの5日間は、大雨こそ降らなかったが、傘を手放せない空模様だったので気分がウキウキしてくる。今日から数日間は、女性ガイド・ナタリアさんが案内してくれる。

オデッサベラルーシの旅1の地図参照)は、人口100万人のウクライナ第4の都市。黒海の真珠と呼ばれる港町で、横浜の姉妹都市だ。

ロシアのエカテリーナ2世は、サンクトペテルブルクを作ったピョートル大帝にならい、1794年にこの町を作らせた。オデッサを作ったことで、ロシアは黒海の不凍港を得たことになる。

まずパルチザン栄光博物館に行った。オデッサは石灰岩がとれる町で、石材を掘り出したトンネルが全長2500kmもある。日本列島の長さと同じぐらいだから信じがたい数字だが、何層にもなっているトンネルを繋ぐと、この長さになる。

このトンネルの中に、1941年10月から9ヶ月間、パルチザンが潜伏していた。兵士だけでなく、奥さんや子供を含めた73名が地下で暮らしていた。トルコのカッパドキアの地下都市のような暮らしをしていたことになる。パンを焼く竈や台所、井戸、寝室、医療室、武器庫、学校もあり、最低限の設備はあった。

1962年に観光用にオープンするときに、天井を高くしたので私たちは難なく歩けるが、当時は常に前かがみの生活をしていたらしい。家族も入れてわずか73名で何かができると考えていたのだろうか。なぜ、パルチザンがこうした不便に耐えて潜伏したのか。ドイツ軍の侵攻に備えてのことだろうが、真の目的も効果もよくわからないまま見学を終えた。

エカテリーナ2世広場には、女帝と取り巻き3人の銅像があった。もちろんこの3人の中には、愛人ポチョムキンもいる。ロシアのサンクトペテルブルクにもエカテリーナの像があったが、ここのよりはるかに立派で取り巻きの男性の数も多かった。

パルチザンが潜伏していた地下 エカテリーナ2世像 プーシキン像

ドイツの攻撃にそなえ
パルチザンが9か月間
潜伏していた地下

 
 
オデッサの町を作った
エカテリーナ2世
取り巻きの男性がいる

 
プーシキン像
帝政ロシアに批判的だったので
辺境の地に流された

ポチョムキンの階段 大鵬関 民族楽器
 
戦艦ポチョムキンの
映画のロケに使われた階段
映画史上有名なロケ地


 大鵬関
北海道に亡命してきた
ウクライナ人の父と日本人の母
の間に生まれた

 
バントウーラという
民族楽器の演奏
64本も弦がある

黒海が見えるレストランでの食事後、オデッサ市内の観光。まずポチョムキンの階段を見に行った。特に説明されなければ、黒海がきれいに見えこそすれ、単なる石段でしかない。でも「戦艦ポチョムキン」のロケにこの階段を使ったことから一躍有名になった。建築家ボッフォの名をつけた階段だったが、後にポチョムキンの階段と呼ばれるようになった。

この映画は、1905年の水兵の反乱を描いた反共産主義の作品である。1925年に制作したが、ソ連では公開されなかった。若い時に「有名な無声映画だから見ておいた方がいい」と言われ映画館に行ったが、細かいことは覚えてない。銃に撃たれた母の手を離れた乳母車が、階段を転げ落ちるシーンは、映画史上もっとも有名な6分間と言われる。

DVDはあるかなとネットを検索していたときに、YouTubeの動画を見つけた。動画にはポチョムキンの階段での大虐殺の場面が映っていた。もちろん乳母車のシーンも映っていた。さわりは居ながらにして見ることができる。便利な時代になったものだ。

きれいな並木通りが終わった所に、ロシアの文学者プーシキンの像がある。プーシキンの小説が、帝政ロシアに批判的だというので、辺境の地・モルドバのキシニョフに追放された。ここオデッサにも滞在していたそうだ。エカテリーナもプーシキンも、ロシア帝国時代の人。ウクライナにいるのに、ロシア人の銅像を見ている。これは今にいたる両国の関係を象徴しているのかもしれない。

オペラバレー劇場の外観見学。1887年の建築で、音響効果が素晴らしいとガイドは自慢げに言うが、外観だけではつまらない。私たちの目は、劇場と噴水を背に記念撮影している結婚25周年のカップルにいってしまった。25年前は細かったろうに、今は2人とも恰幅がある。

次は考古学博物館を見学。ギリシャ時代のものからキエフ・ルーシ時代のものまで、かなり充実した博物館だ。19世紀にエジプトから寄贈された品々もある。エジプトに行ったオデッサの医者が、エジプト人の命を救ったからそのお礼に贈られたという。

小中学生が団体で見学に来ていた。子供たちは東洋人の私たちが珍しいのだろう。親しみを込めた眼差しで接してくる。でも英語が通じないので、コミュニケーションはとれなかった。最後に「ハラショー」と言ったら「あら!」と驚きの混じった笑顔がかえってきた。

施設のそばに駐車場がないので、しばらく歩く。今日のように良い天気だと街歩きは楽しい。いろいろな発見がある。大鵬関の銅像もあった。日本料理屋の前に置いてあったが、経営者は日本人ではないようだ。ちなみに、大鵬は亡命ウクライナ人と日本人との間に北海道で生まれた。ツアーの仲間全員が「巨人大鵬卵焼き」とつぶやいたが、28歳の添乗員Uさんは、聞いたこともないという。そりゃそうだろうなあ。

ホテルに着いたのは4時ころ。夕食の7時までに時間があるので、ホテルのすぐ側にある市場に行ってみた。靴、バッグ、洋服も売っていたが、圧倒的に多いのは野菜と果物。クルミなら持ち帰れるので、クルミを一山買った。

「夕食は民族楽器の調べと共に」と日程表に載っていたので少し楽しみにしていたが、気弱そうな若者がバントウーラという弦楽器を弾いただけだった。64本も弦があるそうだ。でも馴染みの曲が1曲もなかったせいか盛り上がらず、誰もチップもあげずCDも買わなかった 。        <オデッサのチェルノモーレプリヴォズ泊>

                                                   (2013年12月2日 記)

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