ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅4 2012年10月9日(火)−6日目 昼食後もキエフの市内観光が続く。まず黄金の門(左)へ。黄金の門というから金色に光っているのかと思いきや、1982年再建の赤レンガづくりだ。ヤロスラフ賢公の像も立っている。 次は世界遺産の聖ソフィア大聖堂(左)へ。ヤロスラフ賢公が建築。内部のフレスコ画とモザイク画は当時のままだとか。色あせていたが、ヤロスラフの頃の画だと思うと素直に感動できる。感動といえば、ここで聞いた賛美歌の歌声が忘れられない。数人の女性が生で歌っていた。天使の歌声とはこういう声なのだとひとり納得。 この旅が始まって実質5日目なのに、ナチスドイツの野蛮行為は何度も耳にした。ドイツ人観光客にも同じような説明をするのだろうか。 聖ソフィアと向かい合うようにして建つのは、聖ミハイル黄金ドーム修道院(左)。ソ連時代は宗教が否定されこの寺院も破壊されたが、15年前に元の姿に復元した。 すぐ側に建つ外務省のビルは、ソ連時代のもの。社会主義の権力を見せつけているような巨大なビルだ。 5時からドニエプル川クルーズに出発した。ドニエプル川はヨーロッパ3位の長さの2285km。源流はロシアで、ベラルーシとウクライナを経て黒海に注ぐ。
午前の観光で見たペルチュスカヤ大修道院の金色の屋根が、きれいに見えた。こうして別方向から見ると、修道院の広さが実感できる。3人兄弟と妹の像も見えた。パリのセーヌ川クルーズの時もそう思ったが、自分が見てきたスポットを別な角度から見るのは、とてもワクワクする経験だ。 バスで前の席に座っていたので、ガイドのイリーナさんと話すチャンスがあった。英語を流暢に駆使して大学の講師を務めるイリーナさんでさえ、給料の半分が家賃で消えると嘆いていた。社会主義時代は住宅は無料で支給されていたが、今は家賃が高いのだという。イリーナさんは大学の観光学科の講師もしている。1つの仕事だけでは生活していけないので、イリーナさんのように兼務している人が多い。「ミドルクラスは苦しいのよ」と彼女は強調した。でも家庭を持っている女性が働ける環境は整っているようだ。日本の女性に比べ、幸せかもしれない。 朝早い飛行機に乗るので、6時半にはホテル出発。 8時25分(キエフ発)→ウクライナ航空で9時15分(オデッサ着) オデッサ(ベラルーシの旅1の地図参照)は、人口100万人のウクライナ第4の都市。黒海の真珠と呼ばれる港町で、横浜の姉妹都市だ。 ロシアのエカテリーナ2世は、サンクトペテルブルクを作ったピョートル大帝にならい、1794年にこの町を作らせた。オデッサを作ったことで、ロシアは黒海の不凍港を得たことになる。 このトンネルの中に、1941年10月から9ヶ月間、パルチザンが潜伏していた。兵士だけでなく、奥さんや子供を含めた73名が地下で暮らしていた。トルコのカッパドキアの地下都市のような暮らしをしていたことになる。パンを焼く竈や台所、井戸、寝室、医療室、武器庫、学校もあり、最低限の設備はあった。 1962年に観光用にオープンするときに、天井を高くしたので私たちは難なく歩けるが、当時は常に前かがみの生活をしていたらしい。家族も入れてわずか73名で何かができると考えていたのだろうか。なぜ、パルチザンがこうした不便に耐えて潜伏したのか。ドイツ軍の侵攻に備えてのことだろうが、真の目的も効果もよくわからないまま見学を終えた。 エカテリーナ2世広場には、女帝と取り巻き3人の銅像があった。もちろんこの3人の中には、愛人ポチョムキンもいる。ロシアのサンクトペテルブルクにもエカテリーナの像があったが、ここのよりはるかに立派で取り巻きの男性の数も多かった。
黒海が見えるレストランでの食事後、オデッサ市内の観光。まずポチョムキンの階段を見に行った。特に説明されなければ、黒海がきれいに見えこそすれ、単なる石段でしかない。でも「戦艦ポチョムキン」のロケにこの階段を使ったことから一躍有名になった。建築家ボッフォの名をつけた階段だったが、後にポチョムキンの階段と呼ばれるようになった。 「夕食は民族楽器の調べと共に」と日程表に載っていたので少し楽しみにしていたが、気弱そうな若者がバントウーラという弦楽器を弾いただけだった。64本も弦があるそうだ。でも馴染みの曲が1曲もなかったせいか盛り上がらず、誰もチップもあげずCDも買わなかった 。 <オデッサのチェルノモーレプリヴォズ泊> 次(モルドバワイン)へ ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅1へ ホームへ |