行きあたりばったり銅像めぐり
 27回

 ショパン 

 2003年8月の旅は、ポーランドとチェコを訪ねるものだった。チェコの銅像を2つ取り上げたので、ポーランドの銅像も2つ書いてみたい。まずは「ピアノの詩人」ショパン(右写真)。ワルシャワ郊外の生家の庭にある。

 長旅の末にたどり着いたワルシャワ・オケンチェ空港は、フレデリック・ショパン空港とも呼ばれる。このことだけで、この国でのショパンの地位がわかろうというものだ。

 ワルシャワ観光は、ショパンづくしだったような気がする。まず、ワルシャワから西54キロにある生家に向かった。生家は、博物館を兼ねていて、生まれた部屋、出生・洗礼証明書、7歳のショパンが書いた楽譜などが公開されている。左の肖像画も、居間に飾ってあった。

 生まれたのは1810年、亡くなったのは1849年。わずか39年の生涯だ。短期間で、よくもあれだけ珠玉の曲ができたものだ。モーツアルト(35歳で没)にしろショパンにしろ、天才には、長い年月が要らないのかもしれない。シューベルは31歳、メンデルスゾーンも38歳で、亡くなった。

 生家は左写真のように、緑に埋もれているが、広い庭には世界中から贈られた木が植えてある。日本の贈り物は桜。この日は真夏の日差しが強かったので、木陰に救われたものだ。

 右のバラは、ずばり「ショパン」。単なる黄色いバラに過ぎない。何がショパンなのか、わけがわからないが、こうして写真に撮ってしまうところが、われながら優柔不断だ。プリンセスダイアナやプリンセス雅子も見たことがある。勝手に銘々してもいいのだろうか。

 最初の銅像も、この庭で会ったが、さらに立派な像を見つけた(右写真)。何か意味ありげな姿だが、ガイドに聞きそびれた。ショパンお得意のポーズかもしれない。

 ショパン生家では、毎週日曜日(5月から9月)の11時と15時に、ピアノコンサートが行われる。私たちが訪れたのは、8月10日の日曜日。ショパンのピアノ曲(ポロネーズ・ノクターン・マズルカ)をたっぷり聞くことができた。「これだけで、今度の旅の目的は果たしたわ」と感激している仲間もいたほどだ。

 午後も、ショパンに関係が深い2カ所を見学した。聖十字架教会には、なんとショパンの心臓が保存されているという。
  
 ショパンは20歳でポーランドを離れ、亡くなったのはパリである。臨終に立ち会った姉の手で、ワルシャワまで運ばれたことになっている。

 こういう時に黙っていられない私は、「心臓ですけど・・。どういう風に保存してあるの」と、ガイドのエヴァおばさんに聞いた。

 「誰も見てなんかいないのよ。ドイツ軍がこの教会を爆破した時に、心臓も持ち出されてしまって。でも1945年10月17日、彼の命日に、ここに戻されたということになっているわ」と、正直な答えが返ってきた。

  私には、心臓を取り出す行為も、保存する行為も理解しがたいが、左写真の壁の窪みに、心臓が埋め込まれていることになっている。小さいながら、手の込んだ細工がしてある。

 本当に心臓があろうが、なかろうが、ある種の信仰みたいなものだから、ショパンファンには、たまらない聖地なのだろう。

 本日2度目の、ショパンの演奏を聴いたのは、ワジェンスキ公園。王の夏の宮殿が、今は憩いの場になっている。

 ショパンは、柳の木の下にいる。生家の隣にあったレストラン名も「柳の木」。柳とショパンは関係があるのかもしれない。彼が見下ろす四阿の中で、ピアノを弾いていた。ここも日曜だけの演奏だ。

 演奏の善し悪しは、私の耳ではよくわからないが、絶好のロケーションで、生演奏を2度も聴けたことは幸せだった。しかも両方とも無料コンサートだ。
 (2004年1月24日 記)

 社会主義時代のワルシャワに、4年間滞在していた友達から、感想が寄せられた。

 ポーランドに住んだことのある私が、雑感その他を。ポーランドの生んだ3大偉人は、コペルニクス、キュリー夫人、ショパンと云われています。

 ピアノの詩人ショパンが、この国の歴史に翻弄された運命を考えると、音楽好きの私の感動も違ったものになりました。ご存知のように20歳で祖国を去り、最初の留学先ウイーンへ到着後、1カ月もしないうちに、ロシア軍がワルシャワへの進軍を開始し、革命が勃発したのです。「革命エチュード」は、その直後に国を思いながら作曲したといわれています。

 国外での勉強は、ショパン自身も望んだことですが、「不安定な国内情勢のなか、国をあげて、又、友人達を含む回りの人たちが、才能豊なショパンを脱出させた」と書いてある本もあります。

 友人達は、ポーランドの土を盛った銀杯を贈り、ショパンの生地・ゼラゾヴァボーラに馬車が近づくと、カンタータの合唱で見送ったとか。その後は、祖国を一日たりとも忘れたことはなかったのに、祖国へ帰ることは果たされなかった。その間、健康を害した身でも、ポーランド難民のための音楽会を開いていたそうです。

 彼の死後、友人達から送られた“ポーランドの土”は遺骸の上にまかれ、心臓は“遺言”どおり ポーランドへ帰り聖十字架教会の“柱の中”ということになる訳です。

 私のいた当時、ジェラゾバボーラ辺りはまだ舗装された道路が少なく、でこぼこの土の道路でしたから、ショパンが馬車で友人達に見送られながウイーンへ向かった姿もこうだったと、勝手に目に浮かべ感動したものです。
(2004年2月5日追加)

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