行きあたりばったり銅像めぐり
 33回

 日蓮と仁右衛門島

 ここのところ、外出しないので、行きあたりばったりすら、銅像に出会うチャンスがない。「月の砂漠像」を見た房総めぐりで、複数の日蓮像に出会ったことを思い出した。2年前の旅の続きを書いてみたい。

 日蓮は日蓮宗の開祖。浄土真宗の寺に親鸞像があるように、日蓮宗の寺には日蓮像がある。ゆかりの地は数え切れないほどあるが、なかでも千葉の房総は関係が深い。誕生寺もあれば、日蓮宗を開いた清澄寺もあり、初日の出を拝んだ仁右衛門島もある。

 日蓮は、1222年2月16日に安房郡天津小湊で生まれた。その時に、産湯に使う泉が庭に沸いた、近くの海面に鯛の群が集まった、浜辺に時ならぬ青蓮華が咲いた・・の三奇跡が起こったという。鯛の群が集まった奇跡は、今も「鯛の浦」の観光船に引き継がれている。生まれた地に、誕生寺が建立された。その境内に立つ右写真像は、初々しい。

 比叡山で天台宗を学んだが、のちに清澄山で日蓮宗を開いた。1253年、32歳の時。清澄寺は誕生寺や鯛の浦と同じ小湊町にある。

 寺は清澄山頂に建っているので、元々高い場所にあるが、その中でも、境内の一番高い旭が森に、像が建っている(左写真)。朝日に向かってお題目を唱えている姿。

 「日本でいちばん早く朝日が拝める場所」の説明があった。なぜここが早いのだろう。東の地や高い地は、もっと他にあるはずだ。

 誕生寺から15`ほど南下すると、仁右衛門島がある。JRでは「太海」駅に近い。住所は鴨川市太海浜。この時まで名前すら聞いたことがなかったが、新日本百景にも選ばれている。

 泳いでも行けるほど岸から近いが、島内観覧を含め、往復1050円の船賃がかかる。右写真の小さな手漕ぎ船で渡る。

 島の当主の奥様が、旅の同行者Kさんの女学校時代の仲良しなので、われわれも、おこぼれを頂戴して、無料で渡った。

 船着き場には、奥様が出迎えてくださり、これまで数々訪れた島とはまったく異なり、個人宅を訪れた気分だ。島主の平野仁右衛門氏は80歳近い年齢ながら背筋がピンとして、代々続いた当主にふさわしい。奥様も上品で美人だ。

 石橋山の合戦(1180年)で敗れた源頼朝は、安房に逃れ、この島の洞窟に身を潜めていたという。その縁で、頼朝から、この島一帯の漁業権をもらった。それ以来、実に800年以上も平野仁右衛門氏の個人所有になっている。

 Kさんと奥様がおしゃべりしている間、おこぼれ組は島内を隅々まで歩き回った。外房の青い海も間近、緯度の割に温暖なためか、めずらしい植物も生えている。名のある俳人の句碑も多い。釣りや海水浴で賑わう島と聞いていたが、散策だけでも充分楽しい。

 なかでも頼朝が隠れた洞窟や、日蓮が朝日をおがんだ神楽岩(左写真)は、いかにもそれらしい雰囲気で、旅情が刺激される。

 日蓮生誕の地に近いので、こういった伝説も生まれるのだろうが、鎌倉幕府を開いた頼朝と、鎌倉幕府から迫害された日蓮の史跡が、小さな小さな同じ島にあるのも面白い偶然だ。

 日蓮宗を開いて後の行動は、世に知られている。鎌倉で辻説法をして伊豆に流罪、許された後も、再び佐渡島に流されている。晩年は身延山で過ごしている。だから、日蓮関連の史跡や銅像はこの他にもたくさんある。

 誕生寺に行ったので、亡くなった寺にも行ってみたい。2週間後のサクラの季節に、東京大田区の池上本門寺に行ってみた。満開のサクラを背にした、華やかな像が立っていた。(右写真)。

 ここを訪れるのは初めてではない。結婚して東京で生活し始めたのが池上である。私の勤め先が本門寺の近くだったことによる。本門寺の五重塔のそばを通って通勤していた。

 久しぶりの「池上」(東急池上線)だったが、駅前のくず餅屋は老舗の貫禄を保っており、門前町の雰囲気は変わらない。本門寺は、お会式(10月11、12、13日)が有名だ。驚くほど多くの人が集まる賑やかな祭り。本門寺がこれだけ栄えているのは、日蓮がここで亡くなったことによる。

 身延山から故郷の小湊に帰ろうとしたが、池上宗仲の屋敷で病に倒れてしまった。しばらく療養していたが、1282年の10月13日に61歳で亡くなった。お会式は、日蓮法要の行事だ。

 亡くなった場所が、大坊・本行寺として残っている。(左上の写真)。中には「間之終臨御」の額がかかげられた部屋があり、見物可能だ。本門寺は、日蓮が亡くなった後に建てられた。「臨終の間」があること自体おかしいが、好意的に考えれば、亡くなった屋敷の柱の一部を使って、寺を建てたのかもしれない。(2004年4月8日 記)

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