行きあたりばったり銅像めぐり
 38回

 千利休

 38回目の銅像めぐりは、戦国時代に茶道を大成した「千利休」。(右)
9月19日から21日までの3日間、「歴史を訪ねる旅」をしてきた。同行者は、いつものKちゃん。時代順に回っているが、そうそう出かけるわけにもいかず、まだ古墳時代である。古墳時代とあらば、なにはともあれ「仁徳天皇陵」を見なければ話にならない。

 「天皇陵と実際の被葬者が一致しているのは1%もない」が、学者の一致した意見なので、最近の歴史教科書には、仁徳天皇陵ではなく、「大仙古墳」と載っている。詳細は、そのうちアップする「歴史を訪ねる旅」で書くつもりだ。

 全体を眺める高見の見物場所がないので、看板を写してきた。(左)。「仁徳天皇陵を見下ろすことになっては失礼にあたるので、周辺の線路は低くなっている」と、ガイドが説明してくれた。見物用の高い施設がないのは当然かもしれない。

 「新大阪」からJRの「百舌鳥駅」までは、40分たらず。堺の観光の目玉である百舌鳥古墳群散策の起点にしては、小さくてロッカーもない駅だ。駅員に頼み込んで、荷物を預かってもらった。

 大仙古墳の前一帯は大仙公園として整備され、博物館、茶室、平和塔、日本庭園がある。そこを散策していて、ばったり、千利休像に出会った。私とKちゃんは、学生時代に茶道をしていたので、利休が堺の豪商だということは知っていたが、今回の旅では利休屋敷跡を訪れる時間がなく、利休を偲ぶことはあきらめていただけに、嬉しかった。

 石に彫ってある説明文は、次のようなもの。

 「1522年に堺市今市(宿院町西)に、会合衆・魚屋千与兵衛の長男として生まれる。幼名与四郎。幼少より北向道陳に書院台子の茶、のち武野紹鴎に茶の湯を学ぶ。宗易と改名、抛筌斉と号す。織田信長・豊臣秀吉の茶頭。天正13年(1585)、正親町天皇から利休居士号を勅賜。創意にすぐれ、わび茶を完成」

 いつも思うことだが、この種の説明文は、なんとわかりにくいのだろう。字が読めないのもたくさんある。上の文には句読点がほとんどなかったので、追加した。

 千利休は映画の主人公にもなったし、戦国時代のドラマには、たびたび登場する。わび茶の大成以外に、政治経済に大きな影響を及ぼしたのではあるまいか。

 彼が生まれた頃の堺は、海外貿易で財をなした豪商たちが活躍し、自治都市として繁栄していた。財力を背景に、茶の湯など文化面も発達し、いきいきとした町だった。

 利休を語るうえで避けて通れないのが、秀吉の怒りを買って切腹させられたことだが、石碑の説明には、一行も触れていない。郷土の偉人の最期が切腹では格好がつかないと思ったのか。

 大徳寺の山門上に利休像を造ったので、秀吉の怒りに触れたとも言われているが、諸説があり、はっきりしない。いずれにしろ、秀吉は、1591年の2月に、いきなり切腹を命じた。利休が自刃したのは2月28日ということになっているが、なぜか、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行っている。

 利休の死後、孫の宗旦が千家を再興した。宗旦は晩年になって、3人の子にそれぞれ一家を構えさせた。利休の曾孫たちだ。次男・宗守が武者小路千家を、3男・宗左が表千家を、4男・宗室が裏千家をつくり、現在にいたっている。

 私は学生時代に裏千家を、10年ほど前に表千家を習った。袱紗さばき、茶碗の拭き方、柄杓の扱い・・すべての所作が少しずつ違う。茶室に入る時も、表千家は左足から、裏千家では右足からである。「茶の精神」とは遠いところで、分派しているとしか思えない。こんな時、いつも思う。「利休のお点前は、どうだったのだろう?」。

 木と竹と紙で出来た簡素な茶室にいると、言うに言われぬ贅沢な気持ちになる。茶碗も棗も茶筅も茶杓も美術工芸品だ。書の掛け軸もあれば、生け花もある。小さな部屋には、日本美が凝縮されている。若い時に、お茶を本格的に学びたいとチラと思ったことがある。しかし、いろいろな意味で、私が入っていける世界ではないことに気づいた。適当に楽しむには、いい世界だと思う。

 利休百首の中に、次のよう歌がある。 「茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる事としるべし」 只湯をわかして飲むだけでないこからこそ、家元制度が延々と続いている。

 同じ敷地に、武野紹鴎の像もあった。説明は次のようなものである。

 「1502〜1555 大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を、十四屋宗陳、宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは、北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅抛して一閑居士の号を許された。茶道においては、わび茶を好み、利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えた。」

 室町時代のお茶は豪華絢爛なものであったらしい。それに反撥した武野紹鴎が、侘び茶をはじめた。紹鴎の侘び茶の精神を受け継いで大成したのが、千利休である。堺は、侘び茶の発祥の地とも言える。(2004年9月26日 記)

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