行きあたりばったり銅像めぐり
  39回

 魯迅 その3

 「魯迅その1」と「その2」を「銅像めぐり」で取り上げたのは、1年前のことになる。去年9月に仙台を訪ねた際に、2つの魯迅像を見て、下宿跡にも行って来た。作家と革命家の顔を併せ持つ魯迅は、今でも中国で絶大な人気があると聞いている。その魯迅が、医学生として仙台に留学したのは100年前だ。右は、10月18日の河北新報に載っていた魯迅の写真。

 1年前に訪ねた下宿跡には、「魯迅旧居跡」なる標識は立っていたが、そばに建つ住居が当時の下宿なのか、今は誰が住んでいるのか、皆目わからなかった。それが判明したので、取り上げることにした。

 旧居跡に連れていってくれたYちゃんが、地元の河北新報の切り抜きを、きのう送ってくれた。「再見 魯迅-仙台留学から百年-」という7回のシリーズだ。魯迅留学100周年を機に、日中友好を見つめ直そうという連載が、10月18日から始まった。

 「魯迅その3」のほとんどは、河北新報の受け売りだということをお断りしておきたい。

 100年前の1904年9月、23歳の魯迅は仙台医専(今の東北大学医学部)の入学式に臨んだ。最初の下宿先が、片平丁の佐藤屋。旧仙台藩士の佐藤喜東治がやっていた下宿屋だ。

 喜東治の孫の奥さん(82歳)が今でも住んでいらっしゃるとのこと。大正末期に改装されたが、100年前の面影をとどめているそうだ。

 左地図緑色の部分は、かつては多くの学生が学んでいたキャンパスだったが、キャンパスが移転した今は、人影もまばらだ。肖像と同じく、10月18日の河北新報のコピー。

 私が仙台にいた時は、医学部は他の地にあったが、魯迅が留学していた頃は、医専も旧制2高もここにあった。佐藤屋は、医専に近かったのである。興味のある方は、その1その2をお読みいただきたい。地図の赤丸がついている4カ所を綴っている。

 24日の河北新報(下)には、次のような朗報が載っていた。魯迅下宿先を仙台市が買い取って、文化遺産として残す方針を決めたという。ごらんのような住居が、繁華街からそう遠くない地域に、以前の姿をとどめているだけでも奇跡だと思う。

 魯迅に感銘を与えた藤野先生は、医専が大学医学部に昇格するときに、学歴不足のために教授の座を追われて、ふるさとの福井県に戻った。人間性と学歴をそなえ持つ医者は少ないのかもしれない。ふるさとの「あらわ市」に戻って、耳鼻科を開業した。

 藤野先生は、少年時代に旧福井藩士から漢学教育を受けたことがあるという。「魯迅に見せた温かさの背景に、生来の優しさと、中国文化への尊敬と中国人への親しみがある」と、記事にある。旧居を移築した「藤野厳九郎記念館」が、あらわ市に建っている。仙台に魯迅記念館がないのは、片翼をもがれたようなものだ。やっと実現する見通しがたって、嬉しい限りだ。


 
 東北大は、100周年を記念して「魯迅記念奨励賞」を創設し、4人の中国人留学生が奨励賞を受賞したという記事も載っている。

 中国の中学教科書には「藤野先生」(その1を参照)が収録されているので、中国人には仙台の知名度が高いという。そのため、仙台で学びたい留学生は多く、4月末現在で1700人もいる。先日のサッカーアジアカップでのブーイングを思い出すまでもなく、中国が日本を見る目は厳しい。そんな中、魯迅が「わが生涯の中でもっとも尊敬する師」と褒めちぎった「藤野先生」が、日中友好の架け橋になってくれるかもしれない。

 新聞を送ってくれたYちゃんと、河北新報にお礼を言いたい。(2004年10月27日 記)

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