行きあたりばったり銅像めぐり
 43回

 大石内蔵助
 

 元禄15年(1702年)12月15日未明に、大石内蔵助ら赤穂浪士は、吉良屋敷に討ち入って、主君の恨みを晴らした。ちょうど302年前のことだ。今回の銅像めぐりは、泉岳寺境内に立っている「大石内蔵助」(右)。

 先日10日、本所・松坂町(現在の町名は両国)の吉良屋敷から高輪の泉岳寺まで、いわゆる「赤穂浪士引き上げの道」を歩いた。案内してくれる人にくっついて歩いたので、細かい道は覚えてない。各所をゆっくり見ていたので時間が足りなくなり、「東銀座」から「泉岳寺」までは都営地下鉄を利用した。半分しか歩いていないことになる。

 「忠臣蔵」の物語は、何度もテレビや映画で上映され、300年後の今なお人気がある。史実より肥大化しているのはまぎれもないが、大衆の願望が長い間に組み込まれていって、フィクションができあがったと言える。「日本人の深層心理を知るには、忠臣蔵を見ることだ」という識者もいる。

 事件をわかりやすくするために、年表風にまとめてみた。
1701年(元禄14年) 
 3月14日
午前11時ころ、赤穂藩主・浅野長矩は、江戸城本丸の「松の廊下」で、高家筆頭の吉良義央に斬りかかる。直後、一関藩の田村右京太夫にお預け。夕方6時頃、田村邸の庭先で切腹。夜、泉岳寺に葬られる。

殿中で非常識な行動を取った理由は諸説あるが、はっきりしているのは、事件から切腹までの時間が、非常に短いことだ。ろくな詮議をしないで、浅野側だけがお咎めを受けたことは良くないにしろ、こんな短気な殿様だったら、藩士はたまったものではない。彼が忍耐しなかったばかりに、どれほどの人間が犠牲になったことか。

左写真は、皇居の東御苑にある本丸の松の廊下跡。江戸城の面影がわずかに残る東御苑には、大手門や平川門から入ることが出来る。本丸の建物は跡形もなく、碑が残るだけだ。松がご愛敬だ。

浅野長矩が切腹させられた田村邸跡は、地下鉄「内幸町」近くの日比谷通りに面した地にあり、「浅野内匠頭終焉の址」の碑が立っている。
 4月19日
赤穂城明け渡し。元禄15年に、烏山藩主が赤穂城に入る
 9月2日
吉良屋敷が、呉服橋御門内から本所へ。仇討ちされる噂がある屋敷を江戸城近くに置くわけにはいかない。今で言う新興住宅地の本所へ移された。

1702年(元禄15年
 12月14日
深夜、本所の堀部安兵衛宅などに集合。
 12月15日
午前3時頃吉良邸討ち入り、数時間後に吉良義央の首をとる。吉良邸跡は当時の何十分の一の規模だが、「本所松坂町公園」として残されている。(左)。
「追慕 吉良上野介義央」の石碑など、上野介に好意的なものばかりだ。公園そばの路上には、可愛らしいモニュメントもある。(右)。本所(両国)では、どうやら人気者だ。

吉良の首を洗ったという「首洗い井戸」もある。(左下)。ボランティアガイドがいたので、念のために聞いてみた。「まさか当時の井戸ではないですよね」「もちろんです」。こうもあっさり言われると、身も蓋もない。

 午前6時頃、吉良邸を引き払い、徒歩で泉岳寺に向かう。永代橋を渡る手前の乳熊味噌店で休息し、甘酒粥を振る舞ってもらった。浪士の1人、俳人の大高源吾は基角の門下生。味噌店の店主・竹口作兵衛も、門下生だった。今は味気ない「乳熊(ちくま)ビル」に変わっているが、赤穂浪士休息の地なる石碑が立っていた。

 聖路加病院のある場所に、赤穂藩の上屋敷があった。討ち入り時は、すでに没収されていたが、そこの前を通過。ここにも石碑と説明がある。(右)

 大目付の千石伯耆守に、討ち入り報告をするために、吉田忠左衛門らが立ち寄った。自首すれば、罪が軽くなると考えたらしい。その千石邸跡も、虎ノ門病院の斜め前にある。他にも、忠臣蔵関連の石碑はたくさんあった。キリがないので省略するが、忠臣蔵人気のほどが窺える。

 午前8時ころ、浪士達は泉岳寺に到着。浅野長矩の墓前に報告。約2時間で歩いたことになる。速い!

 泉岳寺は曹洞宗で、赤穂家の菩提寺。数年前に来たときに比べ、博物館も新しくなり、全体的にきれいになっている。境内の甘酒屋のおじさんの話では、「討ち入り300年」の時に、整備したという。

 左は、境内入り口にある全体像。切腹の日と討ち入りの日には法要が営まれ、狭い境内は身動き出来ないほどになる。35年前だが、その日に行ったことがある。すぐ近くに職場があった。

 10日に訪れた時は、討ち入りの日が近いせいか、義士祭のちょうちんを取付中、危険防止の柵も出来ていた。

 ここにも、首洗い井戸(右)、血染め石・血染め梅(大石内蔵助が切腹した時の返り血)がある。2時間も生首をかかげて歩いた浪士達は、どんな気分だったのだろう。

 浪士達の墓は、大石内蔵助をのぞくと、同じ形の小さな墓である。(右下)。よく数えると48並んでいる。

 一般に47士と言われるが、切腹したのは46士だ。では他の2人は誰の墓かということになる。泉岳寺にある説明では、萱野三平と寺坂吉右衛門。2人とも、心は赤穂義士と同じということで。後世に墓が作られた。

 寺坂吉右衛門については、NHKやテレビ朝日の時代劇で放映されたばかりだが、大石の命で、瑤泉院や広島の浅野大学、大石の妻子に顛末を報告しに行ったことになっている。いずれにしろ、寺坂は83歳まで生き延びた。
 12月16日
46士が4藩にお預けになる。熊本細川藩に17人、松山松平藩に10人、長府毛利藩に10人、岡崎水野藩に9人。
1703年(元禄16年)
 2月4日 
46士が切腹し、泉岳寺に葬られる。
1747年(延享4年)
 10月6日 
寺坂吉右衛門が江戸で死去。曹渓寺に葬られた。曹渓寺は、南麻布の古川橋病院前にある。寺坂吉右衛門の墓は、仙台、益田、伊豆など全国に7つもある。有名人の墓がいくつかある例は珍しくないが、7つとは恐れ入った。
(2004年12月14日 記)

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