行きあたりばったり銅像めぐり
  44回

 江川 太郎左右衛門

 1月9日は、平成元年のその日に亡くなった義兄の17回忌が、静岡県の伊豆長岡で行われた。早めに横浜の自宅を出たので、1時間以上早く到着。時間つぶしに「韮山の反射炉」を見に行くことにした。そこでばったり出会ったのが、江川太郎左右衛門である。(右と左下写真)。
 電車の場合は、「三島」から伊豆箱根鉄道で「伊豆長岡」まで20分。田園の中を少々歩くと、反射炉の煙突が、遠くからでも見える。

 江川太郎左右衛門という名は、伊豆韮山の世襲代官の通称である。名は英龍。号は坦庵。代官邸である江川家住宅も残っているが、そこまで足を伸ばす時間がなく、反射炉だけの見学だ。

 夫は反射炉を横に見ながら、近くの高校に自転車で通学していた。だから、私も初めて見たわけではないが、以前は銅像はなかったような気がする。「毎日ここを通っていたのに、金払うのかあ・・」と夫がぼやくと、管理している土産物屋の主人が「ああ、僕もN校だ。入場料はいらないよ」となった。たった100円なので有り難みはないが、夫がぼやく気持ちもわからないではない。

 太郎左右衛門が初めて小さな反射炉を、自宅の庭に築造したのは、1849(嘉永2)年。ペリーが浦賀沖に来たのは1853年。黒船以前に、防衛の必要性を幕府に迫っていたことになる。

 ペリー来日後に、幕府は3,700両の資金を出して、築造を許可した。年表を見て気づいたのだが、正式に許可されてわずか1年後の1855年に、太郎左右衛門は、54歳で亡くなっている。明治維新を知らずに逝ってしまった。
 
 おしゃれな町に変身している「お台場」は、開国を迫られた時に幕府が砲台を置いたことから、その名がある。砲台で使う大砲を製造したのが、ここの反射炉である。10年後の1864年には、反射炉は使用中止になった。この間に鋳造された大砲は100以上。十分役割を果たしたことになる。


 右写真の反射炉は、中学の歴史教科書にも載っているから、ご存知の方が多いと思う。平成元年に4回目の補修をしたばかりで、見た目は新しいが、もちろん以前のままである。レンガの色が白っぽい。天城山にある粘土から作った、高温に耐える丈夫なレンガだという。

 鉄を溶かす溶解炉をなぜ、反射炉と言うのか。以前から不思議だったが、パンフレットに次の説明があった。

Aで燃焼した炎と熱は湾曲した天井のBで反射して、Cに集中する。ここに置いた銑鉄を溶解した炎は煙突Dに吸い込まれていく。このため、この型の溶解炉を反射炉と呼ぶ。

 
当時の大砲の模型も展示されていた。(左)。小さかった息子を連れて来た時には、この大砲の上で遊んだ記憶がある。そんなことを思い出していた矢先、昭和3年撮影のお宝写真を見つけた。

 「母が語る20世紀」の「加藤英重」の項を読んでくださった方にはお馴染みの、祖父と祖母が写っている。14歳の母は、この時は同行していない。

大砲の上に乗っている男の子が誰なのか。石井孝一氏撮影とあるから、その方の家族だろう。

 アルバムには、「昭和3年1月4日、伊豆古奈温泉に滞在中に韮山に遠足を試したり」と祖父の字で記してある。正月には古奈温泉で過ごすのが恒例だったという。まだ伊豆の熱川に別荘を持つ前の話だ。
 
 夫が学生時代に遊びに来た時に、出身地を聞いた母は、「古奈温泉には正月に滞在していたの。反射炉もよく行ったわ」と話し出した。娘時代の母が贅沢に暮らしていた逸話が、また登場してしまった。古奈温泉は、伊豆長岡町にある温泉。

 パンフレットには「昭和5年の伊豆大地震で北炉の煙突上部が崩壊」とある。
 
 右写真の反射炉は、昭和3年の姿だから、崩壊前の貴重な写真ということになる。

 祖父は、旅館のどてらを腰で端折って、妙な格好をしている。この14年前まで、アメリカのカリフォルニアで背広を着こなしていた人物とは、とても思えない姿だ。

 江川太郎左右衛門の銅像めぐりが、祖父の記述で終わってしまった。お許しを。(2005年2月13日 記)

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