行きあたりばったり銅像めぐり
 45回

 雷電 為右衛門

 江戸時代の力士・雷電為右衛門の強さは、相撲好きだった父がよく話していた。ロボットアニメの「勇者ライディーン」は、雷電をもじったと聞いている。成田の近くに墓があることも、小耳にはさんでいた。それだけに、去年11月に行った諏訪大社の境内で、彼の銅像(右と左下)に遭遇したのは、思いがけことだった。
 
 説明には「信州東部町が生んだ名力士。氏子の彫刻家・矢崎虎夫氏の文部大臣受賞作品。モデルは、横綱柏戸・佐田山・富士錦」とあった。

 そう言われて顔をつらつら眺めると、柏戸や佐田山に似ている。東部町というのは、長野県・小県郡にある町である。信州出身なら、信州一之宮の境内に、銅像があっても不思議はない。

 1767年に今の東部町で生まれ、18歳で江戸に出た。23歳で松江藩のお抱え力士になった。茶道の世界でも有名な松平不昧公の時だ。29歳で大関になり、45歳で引退するまで、大関の座を守った。1825年に59歳で没。

 雷電の成績は、254勝10敗。勝率は96.2%である。こんなに強かったのに、なぜ横綱になれなかったのか。相撲の家元と関係が深い細川藩と、松江藩が仲が悪かったなど諸説あるが、はっきりしたことはわかっていない。

 江戸時代に勧進相撲が行われた深川八幡宮(東京・江東区)に、「横綱力士碑」がある。横綱の碑なのに、大関雷電も「無類力士」として刻まれている。

 国技館内の相撲博物館にも、彼の手形(右はパンフレットのコピー)が展示されている。大関でありながら、横綱力士碑や博物館に名があるのは、雷電が傑出した力士である証だ。

 成田の近くに墓があると聞いたので、雷電と成田の関係をネットで調べたみた。巡業で成田街道の臼井宿によく行っていたときに、そこの娘と知り合って結婚した。引退後は、臼井に住んだと言われる。「全国には雷電の墓が4つあるが、家族と一緒に葬られているのは、臼井だけである」と、少し誇らしげなコメントがついていた。臼井台の妙覚寺にあるが、私は行ったことがない。

 他に東京・赤坂の報土寺にもある。墓の写真がでネットに載っていたが、ここも行ったことはない。

 「銅像めぐり」は、国内の旅を書くにあたって、何か核になるものが欲しいということで始めた。銅像蒐集が目的ではない。雷電に出会った場所も、ついでのついでに立ち寄った諏訪大社だった。蓼科1泊旅の帰りに「神長官守矢史料館」に寄りたいと息子が言うので、くっついて行った。その史料館のそばに「諏訪大社」があったので、寄ったに過ぎない。

 しかし思わぬ収穫があるものだ。雷電像ばかりか、新しい御柱の実物を見ることが出来た。(右)。

 寅年と申年、つまり7年に1度柱を新しいものに替える「御柱祭り」が、半年前に終わったばかりだった。

 ちなみに、柱に使われる木は樅。祭りの3年ぐらい前に、16本の樅の木選びをするという話だ。なんともスケールが大きい。

 上のパンフレット写真の説明には、建御柱(上社)とある。よくテレビに映るのは、大木が崖を一気に落ちる「木落とし」だが、「川越し」を経て、「建御柱」で柱を建て、一連の行事が終わる。写真を見ただけで気分が高揚してくるが、祭りの日は大変な混雑だと聞いている。おまけに、怪我人やたまには死者も出る荒っぽい祭りだ。人を掻き分けて見物する元気が、6年後の私にあるとは思えない。

 ここに来て初めて知ったことだが、諏訪大社は、諏訪湖の北にある下社(秋宮と春宮)と、諏訪湖の南にある上社(本宮と前宮)がある。4つの社殿の4隅に柱を建てるので、全部で16本の柱が新しくなる。木落とし、川越し、建御柱も16回やることにある。2004年の祭りの日程は、4月と5月の、計12日にわたっていた。

 ところが、訪れた11月14日にも、小さな御柱祭りがあった。祭りの格好をした人が固まって歩いてきたので、「写真を撮らせて」と頼んだら、立ち止まってくれた。大工さんの神様を祀る末社の御柱を新しくしたという話だ。

 建てたばかりの新しい柱を見たかったが、「ゆりかごの人から墓場寸前までの人」が混じっている旅だったので、予定にない行動は、そうそうは取れないものだ。
(2005年2月23日 記)

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