行きあたりばったり銅像めぐり
 46回

 乃木希典

 乃木希典(のぎまれすけ)(写真右)を取り上げるなら、2004年か2005年にと、前から考えていた。陸軍大将として指揮をとった日露戦争から100年目にあたっている。

 ここにある像は、軍服姿ではない。「乃木大将と辻売少年の像」で、次の説明がついていた。

今に伝えられる「乃木大将と辻占売少年」の話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折のことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。

 3月9日、北の丸公園の近代美術館工芸館の「人間国宝の花展」で、漆芸品などを鑑賞してきた。散歩にはもってこいの日和だったので、乃木神社と旧乃木邸まで足を延ばすことにした。1時間も歩いたのは運動のためであって、地下鉄に乗ればわけがない。東京メトロ「乃木坂」で降りると、乃木神社の境内だ。

 地図の右下に、「乃木坂」の駅がある。乃木神社と乃木公園と乃木邸が一体になっていることがおわかりだろう。希典は、明治12年にこの地を求めて以来、34年も住み続けた。明治天皇大喪の日に殉死したのは、よく知られていることだが、神として祭られた乃木神社の完成は大正12年。

 同じ日露戦争で活躍した海軍の東郷平八郎に比べ、乃木大将の知名度は大きい。「武人としては無能だった」と多くの史家や小説家が語っているが、人気は絶大だ。しかも神様になってしまった。息子2人を戦争で失った悲劇、殉死など、日本人の心に訴えるものがあるのだろう。

 江戸末期の1849年に、毛利藩士の3男として、江戸の藩邸(現在の六本木ヒルズ)で生まれた。10歳の頃から過ごした長府や萩では目立たない少年だったが、明治4年には陸軍少佐になっている。わずか23歳の時だ。

 明治10年の西南の役には、中佐として従軍した。この戦いで、薩摩軍に軍旗を奪われたことが、後々まで、精神的痛手になったらしい。

 明治19年にドイツに留学。プロシアの軍人魂に共鳴を覚えて帰国した。しかし休職・復職を繰り返すなど軍務一筋ではなかった。

 明治37年に日露戦争が勃発。しばらくして、大将として、旅順攻撃の指揮をとることを命じられた。

 旅順への船出を広島で待っているときに、長男が南山で戦死(5月)の報が届いた。そして、3度の旅順攻撃では、多くの犠牲者を出したあげく失敗した。次男も11月に戦死した。2人しかいない息子(右写真)を、相次いで失ったことになる。

 窮地を救ったのは、児玉源太郎である。児玉大将が指揮を執ったその日のうちに、203高地の山頂に日章旗がひるがえった。203高地陥落と旅順艦隊の全滅で、ロシアは急速に戦意を失い、1905年1月1日に降伏した。

 1日5日、ロシア関東軍司令官・ステッセルの求めで日露の両司令官が会見することになった。(左写真)。ステッセルが勝者に会う義務は無かったが、彼は騎士道的儀礼を行おうとした。佐佐木信綱作詞の小学校唱歌で知られるようになった「水師営の会見」である。

 水師営と聞いて、なつかしそうに歌を口ずんだ年上の友人がいる。小学校で乃木将軍を称える歌として習ったという。

 乃木希典は、日露戦争失敗の責任をとって辞職しようとした。しかし、明治天皇は彼を引き留め、孫(後の昭和天皇)を養育して欲しいと、学習院の院長に命じた。


 明治天皇と乃木将軍は、強い絆で結ばれていた。封建時代の主従関係と同じようなものだったとも言われる。

 そう考えると、明治天皇大喪の日に、自刃したとしてもなんら不思議はない。

 右は、殉死の朝に応接間で撮ったもの。左は「殉死の室」。

 ふだんはガラス越しにしか内部を見学できないが、命日には邸の中を開放している。

 残っている乃木邸は、明治35年に新築された当時のままである。正面玄関が左下の写真。大将まで上り詰めた人の家にしては簡素だ。建坪が168uの木造平屋。ドイツ留学中に見たフランスの軍隊の建物を模範にしたという。

 住居は木造だが、馬小屋はレンガ造りだ。右写真は、道路から撮った馬小屋の外側。明治22年に作られたもので、馬小屋のほうが立派だと、当時から評判だった。「馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる」の説明がついていた。

 乃木神社と旧乃木邸を訪れてみて、いまだに乃木将軍を愛する人が数多くいることに驚いた。赤坂の高級地に、馬小屋を保存するだけでも大変なものだ。「中央乃木会入会受付」の看板もある。

 日露戦役100年記念の遺品展(右)もやっていた。恩賜の金時計、フランスやプロシアから贈られた勲章、ロシア兵の小銃など。上の3枚の写真も、展示されている写真を写した。ガラス越しなので心配したが、きちんと写っている。

 乃木の人気とは別に、愚将だったという人が多いが、それに反論する本も売っていた。「乃木愚将論の誤りを正す」の帯が、ついている。もちろん、愚将だと記した本は売っていない。(2005年3月9日 記)
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