行きあたりばったり銅像めぐり
  47回

  二宮尊徳

 3月30日から31日にかけて、学生時代の友人夫婦8人と、箱根の強羅温泉に泊まることになった。横浜の自宅から箱根までは、車を使えば1時間強。途中で花見をする目論見だったが、蕾さえ固かった。

 「じゃあ、小田原の二宮尊徳生家(右)にでも寄ってみるか」となった。ナビに目的地を入れたら、簡単に連れていってくれたので、ナビサマサマだ。電車の場合は、新宿から出ている小田急線の「栢山(かやま)駅」から徒歩15分。

 今回の銅像めぐりは、年輩者には馴染みが深い二宮尊徳。私の小学校時代には、ほとんどの学校に、薪を背負って勉学する二宮金次郎の銅像があった。左写真は、記念館にある木像の金次郎少年である。

 生家脇にある下の銅像写真には、「回村の像」の名がついている。二宮尊徳という名前だけは小さい頃から耳にしているが、どんな人物かよく知らない。

 まさか、薪集めのかたわら、勉強をしていたぐらいでは、こうも崇められないはずだ。なぜ「回村の像」なのか。

 生家に隣接している記念館には、彼の業績や一生が展示してあった。模型やアニメを使っているので、非常にわかりやすい。

 江戸時代・1787年に、小田原藩内の栢山村(現小田原市)で、中農の長男として生まれた。酒匂川の氾濫で農地を失ったうえに、父に次いで母も亡くなるという不幸に見舞われた。15歳の金次郎と弟2人はそれぞれ親戚に引き取られ、一家離散。

 そこからが凡人と違うところだ。働きながら勉学に励み、23歳で一家を再興している。

 農民として働くなかで、どうしたら川の氾濫を防ぐことが出来るか、どうしたら収穫を増やすことだ出来るか、冷害に強い作物は何かなどを考えて、実践していった。

 そんな彼を小田原藩主が放っておくはずがない。荒れ果てた領内の村の復興を命じられるまでになった。600余村の農業復興に力を貸したと言われる。「回村」は、こうしたことから生まれた言葉だろう。

 天保の大飢饉を予測して、稗を植えることによって、被害を最小限にくい止めたこともあった。飢饉を予測したのは、夏に食べたナスが秋ナスの味がしたからだというから面白い。夏ナスと秋ナスは味が違うのだろうか。「秋ナスは嫁に食わすな」の意味を、改めて考えてしまった。

 55歳の時に、幕府の役人に登用されて、利根川分水路の調査や日光の神領の復興にあたっている。今市(栃木県)の報徳役所で、1856年に69歳で亡くなった。ペリーが浦賀に来てから、数年後のことだ。

 封建時代にあって、貧しい農民が幕府の役人に登用されるのは、そうそうあることではない。彼の指導が傑出していたと思われる。

 新設する小学校には、二宮金次郎像は作られていない。戦前にあった像を撤去したという話も聞いている。「古い道徳教育を思わせるから撤去したのかな」と漠然と思っていたが、記念館を訪れて、それが間違いだと知った。

 左は、昭和21年に作られた1円札。使われている肖像は、二宮金次郎である。

 昭和21年と言えば、アメリカに占領されていた時代。非民主的な人物なら、紙幣の顔としてアメリカが許さない。「二宮尊徳は、日本でもっとも民主的な人物である」と、アメリカが認めたとの説明がついていた。

 私はこのお札に覚えがない。1円といえば、今使っているアルミ硬貨しか知らない。短命に終わったのはなぜだろう。長男に生まれたのに、金太郎ではなく金次郎なのはなぜだろう、二宮という姓は、東海道の駅名にもなっている「二宮」に関係あるのだろうか。銅像めぐりを書くことで、いつも新たな疑問がわいてくる。脳の刺激には良さそうだ。

 当たり前かもしれないが、小田原市内のほとんどの小学校には、二宮金次郎像が立っている。市内にあるたくさんの二宮金次郎像が写真で飾ってあった。(2005年4月4日 記)

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