行きあたりばったり銅像めぐり
 48回

 大村益次郎

 銅像めぐりは、4ヶ月ぶりの更新である。気に入った像がなければ書く気にならないが、今回は、気に入ったというより、時節柄ピッタリかなと靖国神社にある「大村益次郎」像を取り上げることにした。

 高い場所に立っているので、全体像(左)は撮れるが、顔などよくわからない。コンパクトデジカメの望遠を最大にしても、右写真ぐらいにしか撮れなかった。

 大村益次郎は、周防(今は山口市)の医者の家に生まれ、広瀬淡窓に儒学を、緒方洪庵に蘭学を学んだ。宇和島藩に仕えたときに、西洋式軍艦を建造。その後、江戸に出て蘭学者、蘭方医、兵学者として活躍。次に、長州藩に仕え、第2次長州征伐で幕府軍を破り、脚光を浴びた。戊辰戦争では、東北の乱を平定。

 新政府では、大久保利通や木戸孝允と並ぶ重要な位置にいたが、1869(明治2)年9月に、不平士族に襲われ、2ヶ月後に亡くなった。46歳。軍制を洋式に改めることを提唱したために、攘夷論者の反感を買ったらしい。

 略歴だけでは、靖国神社に彼の銅像がある理由がわからない。明治2年6月に、戊辰戦争の戦没者を祭る「招魂社」を作ろうということになった。この時に、招魂社の地を選定したのが、大村益次郎だった。その功績で、明治15年に銅像を建てることになったという。

 招魂社は、1879(明治12)年に、靖国神社と名前を変えた。各地に作られた招魂社は、1939年、太平洋戦争が始まる頃に、護国神社と改称したが、靖国神社の名称は変えなかった。

 招魂ってなんだろう。想像はできるが、広辞苑を引いてみた。「死者の魂を招きかえすこと。転じて、死者の霊を招いて祭ること」とあった。

 7月17日に、靖国神社の近くにある「近代美術館工芸館」を、高校時代の友人3人と訪れた。ネットでの知り合いTさんの大叔父さん(人間国宝)の作品が、2点展示されているからだ。工芸品の素晴らしさを語りながら、そぞろ歩きしていたら、「靖国神社に行ったことがない」と、1人が言い出したので、寄ってみることにした。

 小泉首相のように、信念あってのことではない。単なる物見遊山、話の種ということだ。もっとも、参道を歩いている姿を外国人、特に韓国や中国の人が見たならば、熱心に参拝しているように見えたかもしれない。

 靖国神社の敷地は、千代田区九段という都心の1等地にしては、広大と言える。上略図のように、大鳥居をくぐると、まず銅像がある。しばらく進むと拝殿にいきつく。

 訪れた日が、たまたま「お盆」に近かったせいか、参道の両側には、黄色い提灯が無数に下がっていた。神官が「御霊祭だから」と言っていた。この神社には250万余の英霊が合祀されているという。黄色いちょうちんは、値段は忘れたが、一個いくらで売っていた。遺族や軍隊時代の仲間が、買うのだろうか。
















 左上は拝殿。右が提灯の一部。この写真には、個人名の提灯がほとんどない。両毛海友会、全国海軍昭和八年会、海軍十三年櫻などの太字が目立つ。ここは、海軍関係の提灯が集まっているようだ。

 戦争で亡くなった方への慰霊と感謝の気持ちから参拝したいという首相の行動は、これだけ聞くと、なんら非難されるべきではない。しかし、靖国神社は国家神道のために明治初期に作られたものであって、純粋な宗教心から出来た神社ではない。無謀な戦争に国民を巻き込んだA級戦犯が合祀されていることも問題だ。

 戦犯を分祀すればいいとの考えもあるようだが、合祀という行為が具体的にどういう事なのか、私には、さっぱり分からない。分骨して墓を別に作るというならわかるが、分祀ってどういうことなのか。誰に聞いても答えてくれなかったが、8月13日のNHKスペシャル「靖国神社・占領下の知られざる攻防」の中で、合祀の説明をしていた。神官たちが、招魂の儀式をしている戦前の映像が映し出された。儀式で英霊を集めて、合祀することを合祀祭と言ったらしい。

 率直に言って、この神社の雰囲気は、普通の神社とはかなり違う。思惑を秘めた人達が、利用しているとしか思えない。戦没者を慰霊したいならば、もっと閑かな場所に祀ってほしいものだ。

 上の略図にある遊就館は、平成13年に再建された立派な軍事博物館である。以前、3度も見学したことがあるので、その日は入館しなかったが、フロアには零戦(右上)が展示され、売店では、日の丸や海軍旗のシールを売っていた。

 そして、参道には、左上のような軍服姿の男性がいた。平服の男性は、ハーモニカで軍歌を演奏している。軍服姿の真意は知らないが、この2人をデジカメに収めている韓国人の若者がいた。彼は韓国のネットで「靖国神社には、こういう人もいる」と流したかもしれない。ピリピリしている両国の関係が、もっと悪化しないことを祈るばかりだ。

 最後に、大村益次郎とも関係がある品川弥二郎の銅像(右)を紹介する。靖国神社に渡る歩道橋の脇に立っていた。彼も長州藩出身。明治政府で活躍したが、1900(明治33)年に亡くなった。

 戊辰戦争の時に歌われた「宮さん宮さん」は、品川弥二郎が作詞し、大村益次郎が作曲した。なぜか私も知っている軽快な歌が、ご両人によるものとは知らなかった。クリックすると、歌詞とメロディーが流れる。ぜひクリックを。このサイトでは、作曲者不祥となっているが、作曲は大村益次郎と書いてある場合が多い。(2005年8月14日 記)

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