行きあたりばったり銅像めぐり
 51回

 ベルツ博士

 ベルツ博士を知らなくても、化粧水のベルツ水を知っている人は多いと思う。今回とりあげる銅像は、ベルツ水で有名なベルツ博士(右)。物心ついた時から、私の家には鮮やかな赤色のベル水があった。ベルツ水は、買うものではなく、作るものだと思っていた。

 化学を生業にしていた父には、ベルツ水を作るなど朝飯前。水酸化カリウム・グリセリン・エタノールを調合するだけのことだ。

 父が、最後にフェノールフタレインを一滴垂らすと、無色のベルツ水は、突然、鮮やかな赤に変化する。私は、この化学実験ごとき作業を、飽きずに眺めていた。赤に変わる一瞬が面白かった。

 フェノールフタレインは、酸性・アルカリ性の指示薬として使われる。赤に変わればアルカリ性、無色なら酸性。水酸化カリウムがアルカリ性なので、赤に変化するのだ。中学生のときに「酸性とアルカリ性を区別する方法」が試験に出たが、化学実験を見ていた私には、易しすぎる問題だった。

 こんなに馴染んでいたベルツ水だが、ベルツさんが、どのような人物なのか皆目知らなかったし、関心もなかった。彼の伝記を読んだのは、10年ぐらい前のこと。日本人と結婚して、人生の大半を日本で過ごしたことを知った。もちろん医学界に多大な影響を与えた。以下、この銅像めぐりに関連ある年表を記す。

 1849(嘉永 2) 年  南ドイツのビーティヒハイムで生まれた
 1872(明治 5) 年  ライプツイヒ大学終了。日本人留学生との出会いが、日本行きのきっかけ
 1876(明治 9) 年  横浜港着 東京医学校(東京大学医学部)内科教師として赴任
 1881(明治14)年  荒井花と結婚
 1889(明治22)年  長男 徳之助(トク)誕生
 1890(明治23)年  花の名義で「草津」に土地を買う。保養サナトリウム建設の構想
 1891(明治24)年  箱根の富士屋ホテルの女中のあかぎれを見てベルツ水を作った
 1907(明治40)年  東京大学にベルツ・スクリバ両教授の胸像建立
 1913(大正 2) 年  ベルツ、ドイツで死去(64歳)
 1935(昭和10)年  草津にベルツ記念碑建立。除幕式に、花、出席
 1937(昭和12)年  花、東大病院で死去(74歳)

 東大医学部の構内で、ベルツ博士の銅像を見たことがあるが、このシリーズを始める前だったので、写真を撮っていない。年表によると、ベルツ博士存命中に、東大構内に銅像が出来ている。

 11月7日と8日、9年前のエジプトの旅で知り合った方2人と、草津温泉に行ってきた。こうして、1年に1度ぐらい、旅の続きをしている。

 草津温泉の西の河原(右)にも、東大にあると同じような像が、2体並んでいた(左上)。左が内科のベルツ教授、右が外科のスクリバ教授。

 東大の像と草津の像がそっくりなのは、当たり前だった。戦争で銅像の供出命令が出た時に、コンクリートでコピーした。それを、後に、草津に持ってきたからだ。

 この像の右隣に、年表にある記念碑が建っているが、草に覆われて字も読みにくかった。

 












 草津温泉は、「♪ 草津よいとこ 一度はおいで ハドッコイショ お湯の中にもコリャ花がさくよ チョイナチョイナ ♪」と歌われているように、古来から有名な温泉だ。

 町の中心に湯気を上げている源泉の湯畑(左上)、それを取り囲む旅館街。これらは、ベルツが驚嘆したころと、変わっていないという。

 群馬県の中央に位置するので、首都圏から行くには、今でも便利とは言い難い。自動車もない明治時代に、東京から通うのは大変だったと思うが、記録(「ベルツの日記」など)によると、何度も訪れている。

 草津の湯の性質、環境が皮膚病やハンセン病の治療に役立つと考えたベルツは、草津に土地を買って、サナトリウム建設を考えていた。この計画は、実現しなかったが、ベルツが、いかに草津を愛していたかを示す写真(右上)が残っている。先生方は、浴衣姿で勢揃いだ。

 こうした縁もあって、草津にはベルツ通りもあれば、ベルツ記念館(左)もある。ベルツ温泉センターもある。

 ベルツ記念館は、温泉街のはずれ、「道の駅」と一体になった施設の2階にあった。今年は「日本におけるドイツ年」なので、両国の国旗や、彼の生まれ故郷の旗も飾ってあった。入館無料。(2005年11月12日 記)

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