行きあたりばったり銅像めぐり
 53回

 弥次さん喜多さん

 
 静岡市の登呂遺跡を見に行ったついでに、市内中心部を散策してきた。駿府城のお堀そばで、弥次さん喜多さん(右)にばったり出会ってしまった。予期せぬ出会いだったので、得をした気分である。

 弥次さん喜多さんは、十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」の主人公。かれらは、駿府の府中(今の静岡市)にも宿泊しているので、ここに銅像があったとて、なんら不思議はない。

 しかも、作者の十返舎一九(左・東京大学所蔵)は、下級武士の子として府中で1765年に生まれた。

 若いころに江戸に出て、小田切土佐守に奉公した。土佐守が大阪町奉行になったので大阪に従った。

 この大阪行きが、のちのベストセラー作家になるきっかけになる。大阪で近松余七の名で浄瑠璃を書き始め、武士の身分を棄てた。

 さらなる活躍の場を求めて再び江戸へ。出版業の蔦屋重三郎の仕事を手伝ううちに、本格的な戯作の道に入った。

 なかでも、1802年に出版した「膝栗毛」は、作者も版元も予想もしない売れ行き。その後シリーズ化されるほど大ベストセラーになった。駿府城の弥次喜多の像は、「膝栗毛」の初版200年を記念して、2002年に作られたもの。

 江戸神田の八丁堀に住む弥次さんこと弥次郎兵衛(左)と、喜多さんこと喜多八(右)が、伊勢参りを思い立ち、東海道を上る様子をオモシロオカシク書いた本である。「膝栗毛」は、自分の足を栗毛の馬に見立てて、東海道を歩いて行くの意。

 「東海道中膝栗毛」が爆発的に売れた理由は、いろいろ分析されている。会話中心なので大衆にもわかりやすい。実力も経済力もない武士階級に対する反発を、無邪気な弥次喜多に語らせている。道中や宿場で起こるできごとが、軽快に描写されている。弥次喜多の常識をはずれた洒落と与太の連発、そしてからっとした笑い。

 こういった内容の面白さ以外に、貸本屋が登場して大衆読者が増加したこと、お伊勢参りが盛んになったことも背景にあると言われる。

 私は「東海道中膝栗毛」を読んだことがない。子ども向けのマンガを読んで、内容を知っている気になっていた。この際、読んでみようかと、わかりやすく書かれたものを、図書館で拾い読みしてみた。なんと、、弥次喜多道中は、売春ツアーと言ってもいいようなものなのだ。遊郭に行くのはあたりまえ、素人娘や障害者にも手を出している。

 たとえば、富田(今の四日市市)へ着いた2人は、 名物焼はまぐり定食を食べさせる茶店へ。注文の蛤を運んできた娘に「これも美味しそうだが、おまえの蛤の方がもっといい」など、さんざんからかう。蛤の意味が分からない方は、ご自分で調べて。

 江戸時代は、封建制度が厳しいうえに、御法度がたくさんあった。庶民は逼塞した生活をしていたように思えるが、「膝栗毛」が発刊禁止になった話は聞いていない。江戸も終わりの頃になると、初期の厳格さが消え、とてもおおらかだったのではないだろうか。
 
 最後に、弥次喜多像の背景になっている駿府城の紹介を簡単に。ここを訪れた3月28日は、桜が満開だった(左)。

 元々は今川氏の居城だったが、1585年に徳川家康が浜松から移った。天下取りの後の1607年に、家康は将軍職を秀忠にゆずり、駿府に移った。大御所の居城だけに、本丸・二の丸・三の丸のある本格的な城だったという。

 今は隅櫓や、門が復元されてあるだけで、内部は公園として市民に開放されている。(2006年4月8日 記)


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