行きあたりばったり銅像めぐり
 54回

  太田道灌 3

 太田道灌の銅像(右)は、全国に、と言っても関東地方だけだが、8体もあり、人気のほどがわかる。設置場所は、@東京千代田区の「東京国際フォーラム」A東京荒川区の「日暮里駅前」B東京新宿区の「中央公園」C埼玉県の「川越市役所」D埼玉県の「岩槻市役所」E埼玉県越生(おごせ)町の「龍穏寺」F神奈川県伊勢原市の「伊勢原市役所」G静岡県の熱川温泉。

 このうち@は23回の、Bは22回の銅像めぐりで取り上げた。この4月に、立て続けに川越を訪れる機会があり、Cの川越市役所前で、道灌に巡り会った。

 銅像めぐりが目的ではなく、市役所の斜め向かいにある「百丈」の手打ち蕎麦を食べるための川越行きだった。店主は仙台出身だが、福島県山都(やまと)町から、石臼で挽いた蕎麦粉を取り寄せている。美味しい十割蕎麦を味わいたい方には、絶対お奨め。

 市役所前にある左の像は、昭和47年に川越市制50周年記念に建立したと説明に書いてあった。市役所は川越城の大手門跡(右)に建っているが、大手門を持つ本格的な城郭は、太田道灌が作ったわけではない。

 江戸時代の川越藩主・松平信綱が、1639年に、本丸・二の丸・三の丸・4つの櫓・13の門がある本格的な城郭を整備した。

 本来なら、松平信綱の銅像があってしかるべきだが、どこの旧城下町でも、戦国武将に人気がある。親藩や譜代大名の銅像には出会ったことがない。


 今は本丸御殿などが残るだけだが、当時の様子は、江戸図屏風(左)で見ることができる。川越城本丸御殿のパンフからの借用。

 太田道真・道灌父子が、川越城を築いたのは、1457年。道灌は、関東管領の扇谷上杉持朝(もちとも)の家臣だった。扇谷上杉氏は、古河公方の足利茂氏(しげうじ)と、北武蔵をめぐって攻防をくりかえしていたので、これに備えた築城だった。

 戦国が終わりをつげた江戸時代には、川越は江戸の北を守る拠点となり、幕府の大老・老中など、要職にある大名が藩主になった。

 太田道灌が有名なのは、築城が上手なこと以外に、山吹の花伝説のためだろう。道灌と山吹の花については、22回で書いているので、ごらんいただきたい。

 ここ川越の本丸御殿の近くにも、「山吹の里」の碑(左)が、立っていた。

 都電「荒川線」の「面影橋」の近くにも、「山吹の里」の碑(右)がある。豊島区教育委員会の説明には「・・山吹の里については、この地以外にも、荒川区町屋・横浜市金沢区六浦・埼玉県越生などの説があり、定かではありません・・」とある。

 川越は、諸説のひとつにもなっていないが、500年以上前の広い武蔵野原野を特定できるわけもないので、目くじらをたてるほどでもない。



 本丸御殿の近くには、「道灌まんじゅう」の老舗(左)もあった。菓子屋横丁の駄菓子をたくさん買い込んだ後だったので、外観を撮っただけで中には入らなかった。味を試してみればよかった。

 川越は、首都圏から日帰りができる観光地だ。池袋から東上線で32分、新宿から埼京線で48分、有楽町から地下鉄有楽町線で60分。

 江戸時代の面影を残す蔵造りや時の鐘(右上)が残っていて、小江戸と言われる。ほとんどの観光客は、太田道灌の像には目もくれず、喜多院(江戸城の家光誕生の間などを移築)や蔵造りが並ぶ街並みを散策している。(2006年4月29日 記)

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