行きあたりばったり銅像めぐり
  55回

  紫 式部
 
 今回の銅像は、2000円札の裏に小さく載っている「紫式部」(右)。同じ女流作家でも、5000円札の樋口一葉に比べ影が薄い。1000年も隔たりがある2人を単純には比較できないが、知名度では紫式部が上だと思うのだが。

 なぜ天智天皇は、明日香から大津に都を移したのか?こんなことを考えながら、5月12日から14日まで友人とふたりで、大津周辺を歩いてきた。ついでに、高校の修学旅行以来の石山寺にも寄ってみた。

 私が修学旅行で京都を訪れた頃は、まだ新幹線も走っていなかった。夜汽車を乗り継いでの旅だったが、初めての関西だけに、何を見ても感激・感動したものだ。石山寺では、紫式部が源氏物語を執筆した部屋を、よく覚えている。ちょうど古文を習っていたからだろう。

 石山寺は大津市の琵琶湖と瀬田川をのぞむ景勝地にある。比叡山に近いので天台宗だと思いがちだが、実は、真言宗の寺。清水寺や長谷寺と並ぶ、有数の観音霊場でもある。

 京阪電車の「石山寺」から10分ほど歩くと、大きな東大門に到着。天気が悪いので、いくぶん薄暗い。本堂の提灯には、灯が灯っていた。

 本堂正面端に、高校時代に見たと同じ「源氏の間」(右上)が、時が止まったかのように、残っていた。中に紫式部の人形があったかどうかまでは定かではないが、古びた外観は当時のままだ。

 「源氏の間」の前で、若いお坊さんが、説明していた。「上東門院の女房だった紫式部は、一条天皇の叔母の選子内親王のために物語を作るよう、女院から命令されました。ここ石山寺に来て、琵琶湖や瀬田川のさざ波や十五夜を眺めているうちに、物語の構想がまとまったそうです。清少納言も枕草子の冒頭に『寺は石山・・』と書いています。他にもたくさんの宮廷の女人達が、お詣りなさっています」。

 私は源氏物語も枕草子もろくに読んでいないが、書き出しぐらいは覚えている。枕草子の冒頭は「春はあけぼの」だが、お坊さんをいじめても仕方ないので黙っていた。

 「枕草子」の原文にあたったところ、195段に「寺は」という題で、「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とある。寺の段は、こんなに短いが、確かに石山と記載されていた。

 「枕草子」(996年頃)以外に、藤原道綱の母の「蜻蛉日記」(954〜974年の出来事)、和泉式部の「和泉式部日記」(1007年頃)、菅原孝標の女の「更級日記」(1020〜1059年の回想記)の中にも、石山寺のことが出てくるそうだ。よほど魅力的な寺だったに違いない。

 平安時代は、平仮名による随筆・日記・物語の女流文学が花開いた。有能な女性達のおかげで、当時の宮廷の生活を垣間見ることができるし、十二単を着た貴族の女性達にも、今の私たちと同じような悩みがあったこともわかる。

 中でも紫式部の「源氏物語」は、王朝文学のみならず日本文学史上の雄であり、後世に与えた影響ははかりしれない。今でも、現代語訳がたくさん出ているのは、優れた小説の証だろう。

 本堂・多宝塔・芭蕉庵・月見亭など主要建築が並ぶ境内の外側部分に、源氏苑という新しく作ったと思われる庭がある。

 源氏苑の一角で、ばったり紫式部(左)に出会った。ガイドブックにもないし、「源氏の間」を説明していたお坊さんも、ひとことも触れなかったので、見過ごすところだった。

 ご覧のように、新緑のモミジに囲まれている幸せな紫式部である。像がつややかなのは、雨で洗われた後だからだ。十二単の襞まであり、細部の造りが丁寧ですばらしい銅像だと思う。

 紫式部は973年から1016年頃の人。父親・藤原為時は、官位こそ高くなかったが、文人・学者として有名だった。彼女も、幼少から漢文を読みこなした才女だったという。家庭的には恵まれなかったらしく、母や姉に小さいときに死に別れ、結婚生活も、夫が早逝したために、長く続かなかった。夫の死後に、中宮の彰子に女房と家庭教師役で仕えた。

 当時の女性の常として、本当の名前や生没年はわかっていない。紫式部は、宮中に出仕した時に呼ばれた名で、「紫」は『源氏物語』で「紫上」を書いたことから、「式部」は父親が式部の丞であったことから付けられたと考えられている。(2006年5月20日 記)

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