行きあたりばったり銅像めぐり
 56回

  松尾芭蕉 2

 「奥の細道」の旅を終えた大垣の芭蕉を、24回で取り上げた。仙台育ちの私には、芭蕉と言えば「奥の細道」しか馴染みがないが、大津周辺をめぐる旅(5月12日〜14日)で、近江と芭蕉の深いかかわりを知った。

 大津の石山駅前のホテルに泊まったので、私鉄の京阪線とJRが交差する石山駅を、何度も使った。そのたびに、駅前広場に立つ芭蕉さん(右)に出会い、「またお会いしましたねえ」と挨拶を交わすほど、仲良くなってしまった。

 貞亭元(1684)年の「野ざらし紀行」で、芭蕉は初めて大津に滞在した。そこに集まった門人達が「湖南蕉門」を結成。大津の地と湖南の門人をいたく気に入ったので、その後何度も近江で過ごすようになる。

 「奥の細道」の旅を終えたのは元禄2(1689)年の8月だが、その年の12月には、大津の義仲寺の草庵で暮らしはじめた。翌年4月に、近津尾神社境内の「幻住庵」に移住。ここで過ごした4ヶ月を「幻住庵記」に記している。残念ながら、幻住庵跡まで足を延ばす時間はなかった。

 元禄7(1694)年9月12日に、芭蕉は、旅先の大阪で亡くなった。51歳だった。門人達は、その日のうちに、遺体と共に義仲寺に向かったという。芭蕉が「義仲寺に葬って欲しい」と、遺言したからだ。

 眠る地を、生まれ故郷の伊賀上野ではなく、近江に選んだほど、近江の風光や門人達を愛していたとみえる。「行く春を近江の人と惜しみける」。

 京阪線とJRが交差している「膳所」から歩いて10分の所に、義仲寺はある。JRで言うと、大津と石山の中間にある駅だ。駅周辺の商店街は、大声で関西弁を話すおばちゃん達が闊歩し、活気がある。よそ者の私たちまで楽しい気分になる。

 その活気がとぎれた閑静な地に、仰々しい構えでない義仲寺が建っていた。芭蕉が滞在していた頃と同じ景観のはずもないが、彼がこの地を好んだことが納得できる雰囲気を残している。

 義仲寺の名は、木曾義仲がこの地で討ち死にしたことによる。義仲が源範頼と義経によって滅ぼされたのは、寿永3(1184)年。その後、義仲の側室・巴御前が、ここに草庵を結び供養していたという。本堂「朝日堂」には、聖観世音菩薩や義仲・義高父子の木像があるらしいが、中はよく見えなかった。左は、義仲の墓。

 巴御前が住んでいたころは、巴御前が身分を明かさなかったので「無名庵」と言っていたが、鎌倉時代の終わり頃には、木曾塚・木曾寺・義仲寺の名で呼ばれていたようだ。

 義仲を気に入っていた芭蕉は、次の句を残している。
義仲の寝覚めのやまか月悲し」 (元禄2年)

木曾の情雪や生えぬく春の草」 (元禄4年)



 「翁堂」(左)には、芭蕉像や去来像が安置されている。ごらんのように、翁堂は芽吹いて間もないモミジに囲まれて輝いていた。苔も草木もみずみずしかった。

 さほど広くない境内に、翁堂、朝日堂、無名庵、粟津文庫、史料観などの建物がひしめきあっている。芭蕉の墓、義仲の墓、巴塚、曲翠の墓、もある。曲翠は、芭蕉がもっとも信頼していた門人で、幻住庵を提供した人でもある。

 句碑も19あるが、芭蕉の句碑は次の3つだけで、他の16は門人らの句碑。

行く春を近江の人と惜しみける」  「古池や蛙飛びこむ水の音」  「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る




 遺言でここに葬られたことを、最初は知らなかったので、「芭蕉の墓って、あちこちにあるのよね」と友人と話していたら、寺の人が、怒ったような顔で口をはさんできた。

 「ここのは本当の墓(左)ですよ。各地にあるのは、供養塔の類じゃないですか。遺骸を埋めたのはここですから、骨も入っています」と言いながら、「野ざらし紀行」以後の、大津との関わり、教えてくれた。
(2006年5月25日 記)

 伊達の五郎さんが、次のような感想を寄せてくれた。芭蕉が、木曾義仲に肩入れしていた理由が、わかったような気がする。

 芭蕉さんについてのレポ楽しく拝読しました。以前読んだ義仲と芭蕉についての論考によると、朝日将軍と称された彼が、後世の物書きにより、粗暴で軍略のない人物像に描かれていることに、芭蕉さんは心を痛めていた。頼朝公が武家政権を取れたのも、義仲公があったればこそというのです。後世に「悪しきもの」と蔑まれた義仲公の復権を心より願っていたと。それだから死したら義仲公と傍らで眠りたかったとありました。

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