行きあたりばったり銅像めぐり
  57回

  ウオルター・ウェストン

 上高地には何度か行っているので、ウェストンのレリーフ(左)があることも、毎年6月第1土日に「ウェストン祭」が開かれることも知っていた。今までは通り過ぎていたが、6月7日から9日までの上高地滞在の旅で、しげしげと眺め、写真も撮ってきた。HPで銅像めぐりを始めてからは、取り上げるかどうかはともかく、写真だけは撮る習慣ができた。

 ウェストン(1861〜1940)はイギリスのケンブリッジ大学卒業後、27歳のときに、英国国教会から牧師として派遣された。槍ヶ岳に登頂したのは、明治25(1892)年。

 上條嘉門次(右)をガイドにつけての登山だった。「日本アルプス登山と探検」の著書には、ミスター・カモンジと紹介されているらしい。嘉門次のレリーフは、明神池のそばの穂高神社奥宮の前にある。明神池のほとりに建つ「嘉門次小屋」は、彼の子孫に引き継がれている。

 ウェストンは、滞日7年間で、日本アルプス以外の山にも数多く登った。本業の牧師はどうしたの?と突っこみも入れたくなるが、日本山岳会が結成された(1905年)のも、ウェストンの尽力によるものだ。

 小中学生のころは家族で、高校生大学生になると、学校の行事で山に登ったものだ。夢中で山登りをしていた頃は、登山というリクレーションが、いつ始まったかなど考えたこともなかった。ここで取り上げることで、明治時代に、イギリス人のウェストンによってもたらされたことを知った。

 ウェストン碑(左)は、河童橋から徒歩15分ほど下流の梓川右岸にある。ご覧のように、苔むした岩に新緑がまばゆい。

 昭和12(1937)年、彼の喜寿を祝って作られた。イギス人に、喜寿の祝いがあるのかと、これまた突っこみを入れたくなるが、彼が日本を離れてから、何年も経っている。それだけウェストンが、尊敬され慕われていたのだろう。

 米英との戦争中は、敵国イギリス人の碑ゆえに、山岳会は秘密に保存しておいた。昭和22年に再び日の目を見たという。現在の碑は、痛みがひどくなったので、昭和40年に作り直したもの。

 今回の上高地行きは、母の92歳の誕生祝いに、三姉妹夫婦が集まっての旅だった。母が生まれたのは大正3年6月8日だが、大正池の誕生は大正4年6月6日。1年と2日しか違わない。「大正池の誕生祝いをしたばかりです」とネイチャーガイドが言っていた。

 大正池は、誕生祝いをしてもらう資格は充分ある。焼岳が噴火でせき止められて出来た池は、上高地に花を添えることになった。そして昭和2年3月に芥川龍之介が「河童」の中で上高地と河童橋をとりあげ、しかもその年の7月に竜之介は自殺した。いやがうえでも上高地は話題になり、この頃から、上高地を訪れる人が大幅に増えたという。

 私が初めて上高地を訪れたのは18歳の夏。大学の体育の授業で槍ヶ岳を縦走しての帰途に、小梨平のテントで泊まった。夏なのに非常に寒くて、友人とその思い出を語ったばかりだ。河童橋からの穂高連峰、梓川の水、神秘的な大正池のたたずまいは、18歳の私には、この世のものと思えない美しさだった。

 しかし、良き思い出は、たいてい裏切られる。群青色の水面に立つ枯れ木は、ほとんど姿を消した。訪れるたびに水も枯れ木も少なくなっている。それは、まるで母の老化と同時進行しているようにも見えるのだった。

田代池。緑のグラデーションがもっとも美しい時期。ウワミズ桜、オオカメノキなど白い花が沢山咲いていた。 水も枯れ木も少なくなった大正池と穂高。朝5時半なのに、アマチュアカメラマンが大勢いた。 梓川の澄んだ水の色は変わらない。秋には黄色になる落葉松が芽生えたばかりだ。
(2006年6月20日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
次(アンデルセン)へ
ホームへ