行きあたりばったり銅像めぐり
  59回

 グリークとイプセン

 私の引き出しは、間口は広いが、奥行きは非常に浅い。

 だからグリークがノルウェー人で、「ペールギュント組曲」の作曲家だということは知っている。イプセンもノルウェー人で、「人形の家」を書いた劇作家だということも知っている。

 しかし、彼らが同世代人で、しかも交流のあったことは、ごく最近まで知らなかった。


 グリーク(左上)は1843年〜1907年、イプセン(右上)は1828年〜1906年。イプセンが15歳ほど年上だが、ふたりは同じ頃、100年前に亡くなっている。そういうこともあって、今回は、2人を同時に取り上げることにした。

 グリークについて知りたければ、ノルウェー第2の都市・ベルゲンに行けばいい。ハロルドハウゲンという町には、42歳から亡くなるまでの22年間住んだ家が、そのまま残っている。隣接して、グリーク博物館、グリークホール(コンサートホール)、銅像が建っている。お墓までが同じ一画にある。みどころが固まっているから、忙しいツアー客には好都合。グリークファンには、聖地みたいなところだ。

グリークが22年間住んだ家。内部は木肌をそのまま見せ、素朴な感じがする。 グリーク博物館は写真も豊富で充実している。ピアノに向かっているグリーク。 グリークホール。夏の期間はコンサートが行われる。窓越しにフィヨルドが見える。 崖に作られたグリーク夫妻の墓。大好きだったフィヨルドを見下ろす丘にある。

 グリークはピアノ名手であり、作曲もピアノ曲がほとんどで、交響曲など大作はほとんど作っていない。その点でショパンと似ているので、「北欧のショパン」とも呼ばれる。抒情小曲集は10巻・66曲もあるそうだ。私はグリークのピアノ曲を聴いたことがないし、聴いても彼の作品だとわからない。

 私が知っているグリークの曲と言えば「ペールギュント」だが、もともと「ペールギュント」はイプセンが書いた詩劇だった。ペールギュントは、ノルウェーの民話に出てくる伝説的な人物。この作品を舞台化するにあたり、音楽がグリークに依頼された。小品を得意としていたグリークは一度は断ったが、民族的な題材を取り上げたいとの思いもあったので、独唱と合唱を含む組曲を書き上げた。1876年の初演は大成功、特に音楽が好評だったという。イプセンは「ペールギュント」のおかげで「北欧の巨匠」と言われるようになるが、グリークもこの作品で、若くして名声を博した。

 主人公のペールギュントは、許嫁・ソルヴェイグがいるのに、他人の花嫁を略奪。その彼女に飽きてしまうと、世界放浪の旅に出る。年老いて無一文になったペールギュントは、故郷に帰る。待っていたのは、許嫁のソルヴェイグ。やっと安らぎを得たペールギュントは、彼女の元で永遠の眠りにつく。

 「ここに滞在していたグリークは、フィヨルドの景色からインスピレーションを受けて、ペールギュントを作曲したそうですよ」と、添乗員のKさんが、フィヨルドに面して建つロフトフースのホテルで説明した。「そうなんだ。ペールギュントの「朝」(クリックすると曲が流れる)は、フィヨルドの朝を表現したのね。そういえばそんな感じ〜」と勝手に感動して、朝靄のかかるフィヨルドを眺めた。

 帰国後に、ペールギュント組曲の解説を読んだところ、「朝」は、ペールギュントがモロッコの海岸を放浪していたときの光景だという。モロッコの海岸とフィヨルドは、だいぶ趣が違うように思う。でも、「朝」の舞台がフィヨルドだとは誰も言ってなかった。単に、インスピレーションを受けたということだった。

 イプセンは、「ペールギュント」の後、1873年に代表作「人形の家」を書いた。主人公・ノラは、男のための人形にすぎない自分に目覚め、真実の生活を探求するために、夫と3人の子どもを棄てて家を出る。この作品は、世界の注目を集め、イプセンは近代演劇の祖と言われるまでになった。私も、高校時代に「人形の家」を読み、人形にはなりたくないなと、漠然と思ったものだ。

 6月末からの北欧15日間のツアーでは、グリーク関連の地は訪ねたが、イプセンに関しては、説明すら受けなかった。銅像は、オスロでの自由時間に、「ここに行けばあるのではないか」と見当をつけて、国立劇場に行ってみた。予想通り、正面左側に堂々と立っていた(左)。

 オスロの王宮そばに、イプセン博物館もある。1895年から亡くなるまでの11年間を過ごした家が、博物館になっている。当時のまま保存してあるとのことだが、行く時間がなく見ていない。(2006年8月7日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
次(ムンク)へ
ホームへ