行きあたりばったり銅像めぐり
  60回

 ムンク

 ノルウェーの画家・ムンクの銅像(右)は、オスロ大学のキャンパスにある。前夜のにわか勉強で、ここにある事がわかったので、自由時間に行ってみた。

 卒業証書ごとき物を手にしているので、オスロ大学の卒業生かと思ったが、帰国後調べたところ、そうではない。左手に持っている物は、何なのだろう。

 ムンクとオスロの関係は深い。オスロ郊外で生まれ、パリ・ベルリン・コペンハーゲンを転々としていた若い時も、夏はノルウェーで過ごしている。1909年以降亡くなるまでは、ずっとオスロ郊外に住んでいた。

 エドヴァルト・ムンク(1863〜1944)の名前を知らなくても、代表作「叫び」は、一度見たら忘れられない。中学の美術教科書にも載っているので、好き嫌いは別として、多くの人に知られている。

 「叫び」のイメージもあり、早逝したと思いこんでいたが、81歳と長命だった。しかし、きょうだい4人は早く亡くなっている。ムンクは独身だったし甥や姪もいないので、25,000点もの膨大な作品は、すべてオスロ市に寄贈された。オスロにとって、ムンクはサマサマなのだ。

 ほとんどは「ムンク美術館」が持っているが、国立美術館にも、彼の作品だけを集めた部屋がある。「代表作は、こちらにありますよ」とガイドのジュンコさんは言っていた。

 「叫び」(左)も、国立美術館にある。撮影禁止なので、絵はがきを買った。ジュンコさんが、ムンクの生涯や作品をわかりやすく解説してくれたので、「叫び」だけではない彼の画風も知る事ができた。

 「叫び」を描いた1年前の1892年1月22日の日記に、ムンクは次の記述をしている。「陽が沈んだ時に友人と道を歩いていて、空が血のように赤く染まり、青黒いフィヨルドと町の上に血のような雲が垂れかかった。私は恐怖におののいて、立ちすくんだ。そして大きく果てしない叫びが自然をつんざくのを感じだ」

 私がオスロを訪れたのは白夜のシーズンで、オスロフィヨルドはキラキラ輝いていた。しかし、正反対の季節・1月末の寒さや暗さは容易に想像できる。夫は11月に仕事で来ているが、午後3時頃には薄暗かったと言っている。冬の夕暮れに、感受性の強い芸術家が、恐怖を感じたとしても不思議はない。

 1997年に世田谷美術館でムンク展が開かれたときの目玉は、「思春期」(左)だった。この作品も国立博物館にある。思春期という割には、はじけるような若さを感じない。おずおずと不安げな少女の顔がある。

 「叫び」は1893年、「思春期」は1894年と同じ頃に描かれたが、この時代の作品には、不安や恐怖がつきまとっている。母を5歳で失ったのをはじめ、きょうだいが次々と結核に冒される。そんな家庭環境や北欧の気候も影響しているかもしれない。
 
 この時代からずっと後になると、作品の傾向は変わる。ガイドブックに「オスロ大学の講堂に『太陽』という壁画がある。ムンクが『叫び』だけの画家でないことがわかる」とあったので、銅像撮影と壁画を見るために訪れた。夏休みのためか、5時を過ぎていたからか、無情にもドアは閉まっていた。

 

 せめて絵はがきで『太陽』(左)をごらんいただきたい。「フィヨルドの水面に照り返る生命力に満ちた太陽があり、長く暗い冬のあとに眠らない夏を体験する北欧の強烈な光の体験と生命力を表現している」と、ガイドブックの説明にある。

 1893年の「叫び」と1916年の「太陽」は、同じ画家が描いたとは思えないほど、画風が違う。


 銅像めぐりの59回で、グリークとイプセンが接点があったことを書いたが、なんと、ムンクもこの2人と接点があったのだ。私がかろうじて名前を知っているノルウェーの有名人、グリークとイプセンとムンクは、ほぼ同時代に生活していたことになる。

 左のポスターは、ノルウェー第2の都市・ベルゲンの「グリーク博物館」にあった。ガイドのチヨコさんが「ムンクが描いたポスターですよ」と早口で説明した。いかにもムンクの画風だと思ったので、何気なくデジカメにおさめた。

 帰国後に写真をよく見たら、「PEER GYNT」の字が印字してある。そうか!これは「ペールギュント」の劇を宣伝するためのポスターだったのだ。

 左に立っているのが若い娘時代のソルヴェイグ、その右は、年老いたソルヴェイグだろう。かわいそうに、ペールギュント待っている間に、こんなにも歳をとってしまった。


 劇作家イプセンが書いた「ペールギュント」の音楽を受け持ったのは作曲家のグリーク、宣伝ポスターを描いたのは画家のムンク。「銅像めぐり」を書き進めていくうちに、「ペールギュント」をめぐる3人の関わりを知った。私にとっては、大発見だった。(2006年8月26日 記)

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