政治家として忙しい身でありながら、学校を作る気になったのは何故だろう。縁者に早稲田大学出身者がいないこともあって、関心はなかったが、この項を書くにあたり、大学のHPをのぞいてみた。
彼は、いわゆる「明治14年の政変」で政府から排斥され、野に下る。こんな状況に置かれたときに、本領を発揮するのが、偉人の偉人たるゆえんかもしれない。
野に下った翌年の1882(明治15)年に、立憲改進党を結成するとともに、東京専門学校を創設した。日本の近代化を推進するためには、政党政治の実現と人材の育成が不可欠と考えたからだ。政党結成と学校創立という理想を、同じ年に実現したのだからすごい。
創立した学校は、大隈重信の別邸が東京府豊島郡早稲田村にあったことから「早稲田学校」と呼ばれていたが、正式には「東京専門学校」と名付けられた。1902年に専門学校が大学に昇格したのを機に、「早稲田大学」という名称になった。
下野していた大隈は、その後政界に復帰し、1898年に第8代総理大臣。1907年に政界を引退し、早稲田大学の総長になった。ところが、1914年に再び復帰して第17代の総理大臣に就任。亡くなったのは1922年、83歳の時だった。こうした経歴をみると、最晩年まで政界に強い影響を持っていたことがわかる。当時の国民には、非常に人気があったらしい。
慶応大学の創立者・福沢諭吉には「人の上に人を作らず人の下に人を作らず」など思想家として有名なフレーズが残っているが、大隈重信が教育者として具体的にどんな話をしたのか、私は聞いたことがない。
それはともかく、早稲田大学には、大隈会館など大隈の名前がついた施設がいくつかあり、入学を希望する受験生には、大隈の名は憧れらしい。銅像詣でをする人もいると聞いた。なんといっても、慶応大学と並ぶ私学の雄なのだ。
シンボル大隈講堂(左)は、彼が亡くなるとすぐ記念事業の1つとして建設された。地上3階、地下1階。時計台の高さは、125尺(約38メートル)。125尺は、彼が生前唱えていた「人生125歳」にちなむそうだ。
少しカビくさい講堂内部に入ってみた。イベントを準備する学生でごった返していたが、場違いなオバチャンを排除することもなく、非常にオープンだった。オープンといえば、ここの大学には、いかめしい門がない。
門番がいて構内に入れてくれない国立大学もあり「税金を使っている大学のくせに何様のつもりだ」と憤慨したことがあるが、ここはそんな事はない。石段に座っていた学生に「門はないの」と聞いたら「大隈さんが閉鎖的なことは嫌いだったそうです」の答えが返ってきた。「大隈さん」と親しげに呼ぶことに、驚いてしまった。
大学が経営するリーガロイヤルホテに隣接して、大隈庭園(左)もある。松平讃岐守の下屋敷の庭園だったので、石灯籠もあり本格的だ。
子どもの頃、近所に面白い角帽を被っている学生がいた。地元の大学に通う兄の角帽とは違い、妙に平べったい。母から「早稲田の角帽よ」と聞いた。東京育ちの母には、よく見慣れた角帽だったのだろう。
そんな平べったい学帽を売る店(左下)が、まだあった。応援団員以外にも購入者がいるのだろうか。大学のHPに「学帽の由来」が次のように載っていた。
「大隈重信の宿願は、世界唯一の帽子を作って、どんな辺鄙な土地でも、すぐに早稲田の学生とわかるようにすることでした。そのために呼び出されたのが、洋服店「高島屋」の主人・弥七郎で、彼は三昼夜にわたる熟慮の末、一世一代の自信作を提出いたしました。金モールの徽章とともに商品登録を受けた角帽の裏には姓名・学科名の他、校印を捺して、「早稲田の学生に相違無之候也」との文字が添えられ、身分証明ともなり、実質的なステータス・シンボルの役目を果たした訳です。」
(2007年1月12日 記)
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