行きあたりばったり銅像めぐり
  63回

 坪内逍遙

坪内逍遙 坪内逍遙(左)は、二葉亭四迷と共に、近代文学誕生に貢献した人物として、国語の授業で習った。彼の著作「小説神髄」「当世書生気質」は暗記事項だったから、名前だけはよく知っているが、人となりも知らないし、書いた文章も一度も読んだことがない。

 62回に続き、早稲田大学周辺の銅像である。この写真を撮ったのは1年半も前。かつて学んだ大学のサークル有志で「ゆうウオーク」なる集いをしている。早稲田大学になんら関係のない私達だが、都電めぐりをする時の集合場所が、大隈重信像前だった。

 大隈重信像から徒歩2分にある「演劇博物館」を見ないのはもったいないということになった。博物館左手の木に囲まれた場所で出会ったのが、坪内逍遙である。

演劇博物館 演劇博物館(左)は、1928(昭和3)年、坪内逍遙の古希と「シェークスピア全集」(全40巻)の完成を記念して作られた。正式名称は「早稲大学坪内博士記念演劇博物館」という。彼は、「近代文学の先駆者」というより、シェークスピア全集の完訳者としての業績の方が大きいようだ。

 1階から3階までの展示室は、非常に充実していて「日本唯一の演劇専門博物館」のうたい文句もうなづける。「シェークスピアの世界」という部屋もあるが、ほとんどは日本の演劇に関する展示で、古代から近代までの芸能を取り上げている。

 こんなに充実していて入館料は基本的には無料である。土日にはボランティアが解説までしてくれる。詳しくはリンクしたHPをごらんいただきたい。

バルコニー 建物は、エリザベス王朝時代の16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して設計された。坪内逍遙自身の発案だという。エリザベス朝といえば、シェークスピアが活躍した時代と重なる。バルコニー(左)で「ロミオとジュリエット」が演じられたこともある。

 坪内逍遙は、1859(安政6)年、もうすぐ明治維新というときに現在の美濃加茂市で生まれた。亡くなったのは1935(昭和10)年。明治・大正・昭和にわたり、活躍した文学者。

 東京帝国大学英文科卒業。東京専門学校(62回の銅像めぐりにあるように、早稲田大学の前身)に赴任。早稲田大学文学部の生みの親でもある。「早稲田文学」を創刊したのも彼である。


 ウィキペディアで得た知識だが、妻センは根津遊郭の娼妓。東大生の逍遙が通い詰め、1886年に結婚した。この結婚をテーマにした松本清張の小説「文豪」がある。2人には子どもがいなかったので、甥の坪内士行を養子にした。その子どもが女優の坪内ミキ子。坪内ミキ子が活躍していたころに、「坪内逍遙の孫」と言われていたが、血のつながりは、ほんのちょっとしかなかったのだ。

 早稲田大学の文学部を創設したにもかかわらず、坪内逍遙は他の教師ほど大隈重信に親しむことはなかったようだ。大隈邸を訪問したのは数える程度だったという。政治家と文学者の肌合いの違いかもしれない。

 早稲田大学キャンパスには、他に「会津八一記念博物館」もある。演劇博物館のすぐ近くにあるので、両方の入館をお奨めする。ありがたいことに、ここも無料。会津八一(1881〜1956)は、東洋美術史の研究者、歌人、書家として有名だ。早稲田大学を卒業し、のちに早稲田大学で東洋美術史を講義した。

 この博物館には会津八一が蒐集した4000点もの中国の美術品はじめ、考古資料、近現代美術品など多岐にわたって展示されている。西安の兵馬俑も数体あった。「本物ですよ」ということだった。

都電「早稲田」 ところで私たちの「ゆうウオーク」は、この2ヶ所をゆっくり見ていたら、昼時になってしまった。結局早稲田の学食で、学生と同じ食事を摂った。その後、神田川沿いの関口芭蕉庵や椿山荘の庭を楽しむなどして、早稲田周辺の散歩は終わった。ほとんどお金をかけずに、身も心も豊かになったような気がする。この日の「ゆうウオーク」は早稲田サマサマだった。

 結局「都電めぐり」は、翌年に持ち越した。ちなみに都内に唯一残る都電荒川線は、早稲田(右)と三ノ輪12.2qを結んでいる。江戸時代の名残もあり、どこで下車しても面白い路線。暇人にお奨め。(2007年1月22日 記)

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