行きあたりばったり銅像めぐり
   66回

 ペリー提督

 今回取り上げる「ペリー提督(右)」は、1794年にアメリカのニューポートで生まれた。言うまでもなく、日本を開国させた人物だ。

 「日本を開国させるべし」の任務を言い渡された東インド艦隊司令官ペリーは、4隻の蒸気船を率いて、1853年6月9日に久里浜村に上陸した。「太平の眠りをさます上喜撰 たった4杯で夜も眠れず」の狂歌に、当時の日本人の驚きと興奮と好奇心が現れている。上喜撰は、最高級の煎茶の名前。蒸気船とかけている。

 翌1854年1月16日に再来日。40数日間にわたる交渉の結果、3月3日に横浜村で日米和親条約を締結し、下田と箱舘(函館)の開港が決まった。長い鎖国に終止符が打たれた条約である。

 ペリーが初上陸した久里浜(今は横須賀市)には、上陸記念碑や記念館は建っているが、銅像はない。和親条約を締結した横浜には、開港記念館はあるが、銅像はない。ペリーが生まれたニューポート市には立派な銅像が建っているのに、日本にないのは寂しいなと感じていた矢先、静岡県の下田でペリーに出会った。

 去年の12月に近所の友人5人と伊豆高原に泊まったときに、下田まで足を延ばした。

 下田は、初代アメリカ総領事のハリスが、玉泉寺に総領事館を開いた地として有名だ。下田と聞いて「ハリスと唐人お吉」しか思い浮かばない私は、ペリーの銅像(左)を見て意外な気がした。

 銅像の説明には、日米交流150周年記念とあり、2004年3月31日のジョージ・ブッシュ大統領の署名があった。4年にもならない新しい像だ。

 ペリー一行は下田条約を結ぶために、1854年4月18日に下田港に上陸したのだった。1853年に久里浜に現れたときは4隻だったが、下田へは7隻で入港(左)している。

 下田条約の締結は、1854年6月17日に、上陸地からほど近い了仙寺で行われた。境内には、日米条約締結の地の石碑が立っている。

 ペリーの遠征に随行した画家ハイネが描いた絵やカメラマンのブラウンが撮った写真は海外でも出版され、未知の国だった日本人や日本への興味をかきたてたようだ。下田だけで数ヶ月も滞在しているので、村民や村の風景を描いた絵や写真も多い。これらは、幕末を知る上で貴重な史料にもなっている。

 その一方で、諸大名たちも、御用絵師を派遣している。黒船来航の一大事にびっくりして右往左往しながらも、異国への興味をつのらせる。現在の日本人の姿を見るようである。鼻の高さを強調したペリーの肖像画だけで何点もある。了仙寺宝物館は、海外で出版された絵や写真・御用絵師の絵・古地図・開港文書など3,000点以上のコレクションを持ち、充実している。

 
了仙寺の入口 了仙寺でペリー陸戦隊訓練の絵(宝物館) 日本人が描いたペリーの肖像画(宝物館

 下田は、新幹線の熱海で乗り換えて、JR伊東線・伊豆急と乗り継ぐ。熱海から約1時間半。東京からは、踊り子号直通で2時間40分。

 下田には下田城・寝姿山・きれいな海など見どころはたくさんあるが、なんといってもメインは幕末の史跡だ。歴史の散歩道が整備されているし、ボランティアガイドもいるので歩きやすい。

 ペリー像と了仙寺とペリーロード・アメリカ総領事館が置かれた玉泉寺とハリス記念館宝福寺と唐人お吉記念館・お吉が開いた小料理屋・吉田松陰拘禁跡欠乏所跡など。吉田松陰は、下田に入港していたペリー艦隊で密航を企てたが失敗して拘禁された。欠乏所は航海上必要な、薪・水・食料・石炭などを供給した所。

 私たちは、ペリー像と了仙寺と宝物館しか見学しなかったが、1日あれば、すべてを回ることができそうだ。開港直後の熱気を肌で感じるにちがいない。

下田公園の高台から見た下田港と下田富士 下田のマンホールは、黒船の図案である ペリー上陸地から了仙寺までの道は、ペリーロードと呼ばれる。この一帯の掘り割りとなまこ壁の民家は風情がある。

(2008年2月9日 記)

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