行きあたりばったり銅像めぐり
  67回

  小林一茶

一茶の顔 前回のペリー提督もそうだったが、予想もしていない所で、ばったり小林一茶像(右)に出会った。近所の友と月に1回歩いている「歩く会」の当番は、回り持ちだ。自分が当番でない場合は、ただくっついて行くことが多い。一茶に会ったのはこんな時である。

やせ蛙のマンホール わがやの近くを通る東急田園都市線と相互乗り入れしている東武伊勢崎線の竹の塚駅までは、乗り換えなしで行くことができる。2月の歩く会は、その竹の塚と隣駅の西新井近辺の寺社巡りだった。両方とも東京の足立区にある。

 竹の塚駅を降りるや、一茶の「やせ蛙」図案のマンホール(左)があった。なぜこんな所に?と思いながらも、カメラにおさめた。

 マンホールの謎は、4ヵ所目に訪れた「炎天寺」で解けた。寺の名前も変わっているが、所在地の町名「六月」も珍しい。

 境内には「源頼義と義家父子が、奥州安倍氏征討の1056年に、この付近で苦戦。石清水八幡に祈願して勝利したので、八幡神社と寺を建立。時は6月で炎暑だったので、村の名を六月に改名、寺の名を炎天寺とした」の説明札が立っていた。勝手に村の名を変えられてしまった。

一茶の銅像 その炎天寺境内に、立派な一茶像(左)が立っていた。休憩で立ち寄っただけのようだが、「蝉なくや六月村の炎天寺」の句を残している。文化13(1816)年9月に詠んだ。

 像の右下には「やせ蛙」が相撲をとっている像もある。六月村の炎天寺の句は初耳だが、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」はよく知られている。

 「炎天寺と一茶」という説明板にも、やせ蛙の句をここで詠んだとは一言も書いてない。一茶の年表を見ても、やせ蛙の句を詠んだ場所の記述はない。文化13年4月、一茶55歳の時に詠んだということだけだ。

 芭蕉の「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」の碑も、私は2〜3ヵ所で見ているから、場所はどうでもいいのかもしれない。利用できるものは、利用した方がいいということだ。

 俳句の素養を持ち合わせていない私が言うのはナンだけれど、同じ蛙を詠んでも、弱いものに優しいまなざしを向けた「やせ蛙」の句と、これぞ侘びと言える「蛙飛び込む」の句では、だいぶ趣が違う。

 蝉についても「閑かさや岩にしみいる蝉の声」と「蝉なくや六月村の炎天寺」では違う。

 違うからこそ、芭蕉と一茶は、江戸時代を代表する俳人に並び称されているのだろう。

炎天寺の碑 やせ蛙の碑 やせ蛙
蝉なくや六月村の炎天寺 やせ蛙まけるな一茶是にあり 痩せて小さい蛙は、負けたのだろうか

 小学生の時に、一茶の漫画を読んだ。一茶がかわいそうで、涙したことを覚えている。母に早く死なれる、継母にいじめられる、奉公先でしごかれる、何度結婚しても奥さんに死なれる、子供も死んでしまう。土蔵の中で寂しく死んでいく場面が漫画の最後だった。

 漫画で覚えた句もたくさんある。やせ蛙の句もそうだが「名月をとってくれろと泣く子かな」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」「われと来て遊べや親のない雀」「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」など、なんて優しい人だと思った。

 この原稿を書くにあたって、長野県上水内郡信濃町柏原にある一茶記念館のHPを開いてみた。一茶の一生は、漫画とさして変わらない。1763年に、信州柏原の農家で生まれ、3歳で母に死なれる。義母になじめなかったので15歳で江戸に奉公に出る。20歳のころに俳句の道をめざす。39歳のときにふるさとに帰って父の看病をする。父が一茶と弟で田畑を分けるように遺言を残した。この遺言で、弟と義母と遺産争いをする。

 52歳で28歳の「きく」と結婚。4人の子ども達はみな幼くして亡くなった。妻きくも37歳亡くなった。再々婚した「やを」との間に生まれた「やた」だけは、明治の世まで生き、一茶の血を後世に伝えた。皮肉にも、「やた」は一茶が亡くなってからの子供である。一茶は1827年柏原宿の大火で屋敷を失い、土蔵の中で亡くなった。65歳。

 真田幸村研究の第一人者である小林計一郎さん(大正8年生まれ)は、一茶の子孫だそうだ。

福蛙 ところで炎天寺の社殿の前には、福蛙(右)が鎮座していた。やせ蛙では福も来ないと思ってか、見るからに肥った蛙だ。

 「開運招福」「なでて福授かるべし」とあった。「やせ蛙とふとっちょ蛙か〜」と、寺の商魂たくましさにあきれて笑いながらも、ふとっちょ蛙をなでてきた。相変わらず、私はいい加減なのである。(2008年2月11日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
次(伊能忠敬)へ
ホームへ