68回 江戸時代の深川は、物資の集積地でもあり非常に活気があったと聞いている。池波正太郎や藤沢周平の時代小説にもよく登場する。3月8日に、江東区の深川近辺を丸1日かけて散策してきた。 地下鉄「門前仲町」の駅を降りて数分の所に、富岡八幡宮がある。その八幡宮の鳥居をくぐった左側に、伊能忠敬(1745〜1818)の銅像(右)があった。何年か前に訪れた時はなかっただけに、予期せぬ出会いだった。 深川散策は、富岡八幡宮・深川不動尊・えんま堂・深川江戸資料館・清澄庭園・芭蕉稲荷神社・芭蕉記念館・・と盛りだくさん。3つもあった芭蕉の像については、改めて取り上げるつもりだ。 伊能忠敬の展覧会を、ちょうど10年前に両国の江戸東京博物館で見ている。半券(右)を見るまでは10年も前のことだとは思わなかったが、10年前は没後180年で、佐原に伊能忠敬記念館が開館し、東京でも大々的な展覧会が開かれた。だから今年は、没後190年ということになる。 千葉の佐原村の名主で酒造業を営んでいた忠敬は、事業を成功させたあとに隠居。50歳で江戸に出て、幕府天文方の高橋至時の下で、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学を学んだ。 基礎を身につけた後の55歳から71歳という晩年に、日本各地を歩いて測量した。そして「大日本輿地全図」を完成させたのだ。 今でこそ50歳は、第2の人生を始めるには遅くはないが、江戸時代に50歳で新たなことに挑戦し、しかも成し遂げたのだから感嘆する他はない。忠敬の幼年時代から亡くなるまでの生涯は、記念館のHPに詳しい。 「なぜ富岡八幡宮に銅像があるのだろう」の謎は、平成13年に書かれた説明文を読んで解けた。 江戸に出た忠敬は、深川黒江町(今の門前仲町1丁目)に居を構えた。1800年6月11日に初めて蝦夷地の測量に出発する時に、この八幡宮に参詣したそうだ。 10回の測量のうち、8回は富岡八幡宮にお詣りしてから歩き出したという。境内にある像(左上)は、第1歩を踏み出すさまがよく表現されている。右手に測量の道具を持っている。 ところで、忠敬が作った地図は、どのようなものだったのか。10年前の展覧会で、今の地図とほとんど変わらない正確な伊能図を見てびっくりした。それを示す良い資料はないものかと探していたところ、記念館のHPで現代の地図と伊能図を重ね合わせた地図を見つけた。 オレンジ色が「伊能図」で、緑の地図が現代の地図である(左)。北海道と青森県から宮城県までの海岸線、九州の長崎・宮崎・鹿児島付近が少し違っているに過ぎない。 忠敬は、多数の地点で天体の観測を行い、位置の補正を行ったそうだ。地上の測量結果を、天体の観測により補正する方法を採ったのは、忠敬が初めてだという。 「緯度は非常に正確だが、経度はクロノメーター(経線儀)がまだ発明されていないこともあり、誤差が含まれている」という説明がついていた。
(2008年3月23日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ 次(ガラスのうさぎ像)へ ホームへ |