行きあたりばったり銅像めぐり
 69回

 

 「ガラスのうさぎ」の像が立っていることは知っていたが、行くチャンスがなかった。銅像目的で旅をすることはなく、「行きあたりばったり」か「ついで」に出会った銅像を取り上げているからだ。

ガラスのうさぎ像 3月の歩く会で、神奈川県二宮町の梅林や徳富蘇峰記念館を訪ねた。この時、東海道線二宮駅前で「ガラスのうさぎ」像(左)に出会った。

 高木敏子さん作の「ガラスのうさぎ」(金の星社発行)は、終戦間近に彼女の一家を襲った実話である。

 敏子さんは、東京本所区(今の墨田区)両国の父母のもとを離れ、知人の紹介で神奈川県の二宮に縁故疎開していた。当時の都会の学童は、疎開しなければならなかった。

 彼女が疎開中の1945(昭和20)年3月10日。東京大空襲で2人の妹とお母さんが犠牲になった。1晩で10万人もが亡くなった大空襲だ。国民学校6年生だった敏子さんには、それだけでもショックなのに、もっと恐ろしいことが起こる。

ninomiyaeki 終戦間近の8月5日。奇跡的に生き延びたお父さんとふたりで新潟に行くべく、二宮駅(右は、今の二宮駅)の待合室にいた。

 そのとき、突如、米軍のP51の機銃掃射が待合室の屋根を破って急降下してきた。気づいた時は血まみれで動かない父が、目の前にいた。

ガラスのうさぎ像と駅前 「ガラスのうさぎ」は涙なしには読めないが、父の遺体を火葬するまでのくだりは、特に涙が止まらない。火葬許可の書類をもらうのも、火葬するための薪の入手も、女学校1年になったばかりの少女が走り回らねばならなかったのだ。健気な敏子さんと、そんな彼女を陰ながら応援した二宮の人達の交流は、悲惨な話の中では、ホッとする部分である。

 本の題名でもあり、敏子さんに抱かれている「ガラスのうさぎ」って、なんなのだろう。敏子さんの父は、両国でガラス工芸品を作る工場を経営していた。戦争中は、軍の命令で注射器を製造していた。

 大空襲から4ヶ月後の7月。自宅の焼け跡を訪れた敏子さんは、灰の中から父が作ったガラスのうさぎの置物を掘り出した。グニャグニャになっていたが、妹たちの遺品と共に、大事に手提げにいれて持ち帰った。

 東海道線の二宮は、横浜からおよそ50分。駅前は当時の悲劇の痕跡すらなく、湘南独特の明るい太陽に恵まれいる町だ。この像(左)がなければ、終戦のわずか5日前に、こんな惨いことがあったなど、忘れられてしまうだろう。

 敏子さんが疎開していたころは、みかんと落花生の産地だったらしいが、今は落花生を栽培している農家はなくなったという。

 マンホールの模様は、町の花・椿。でも、私たちが歩いた所には、椿ではなく梅がたくさん咲いていた。徳富蘇峰記念館の梅園も、「かながわの花100選」に選ばれるほどの梅の名所。樹齢300年の古木が多い。記念館で、徳富蘇峰の銅像にも出会ったので、機会があれば書きたいと思う。

梅が模様のマンホール 紅梅 徳富蘇峰梅園
二宮のマンホールは、町の花・椿 紅梅が青空に映えてきれいだった。 徳富蘇峰記念館の梅園満開には少し早かった。

(2008年4月6日 記)
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