70回 24回で大垣の芭蕉を、56回で近江の芭蕉を取り上げた。70回目の今回は、深川の芭蕉。3月に深川界隈を散策した時に、芭蕉像3体に出会った。一緒に歩いてくれたのは、千住の住人jusinちゃん。千住の町おこしに関わっていて、芭蕉に関するサイトも作っている。またとない案内人つきで、のんびり歩いてきた。 「奥の細道」旅立ちの地は千住だが、深川は旅立ち直前まで住んでいたところで、「序文」(下記)の「・・住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに・・」の地である。 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。 深川の芭蕉に関する史跡は、地下鉄東西線の「門前仲町」と、地下鉄新宿線の「森下」と、隅田川にはさまれたごく狭い地域に固まっている。 芭蕉の史跡だけを示す地図を探したが、他の情報が入っていてわかりにくい。左地図はHARUKOの手書き。 赤字のAが芭蕉稲荷神社、Bが芭蕉庵史跡展望台、Cが芭蕉記念館、Dが採荼庵、Eが臨川寺。 芭蕉は1680年に、日本橋から深川に転居。芭蕉の門人で大商人の杉山杉風(すぎやまさんぷう)所有の草庵に入った。俳句に専念するには、日本橋より鄙びた深川の方が良いと考えたようだ。私達も芭蕉庵があった辺りをゆっくり歩いてみた。隅田川の対岸には今でこそ高層ビルがそびえるが、大川の流れはゆったりとして変わらない。当時は、富士山も見えたに違いない。こんな環境なら芭蕉も喜んだはずだ。 弟子が草庵の庭に1株植えた芭蕉が見事に育ったので、芭蕉庵と呼ぶようになった。それ以来、俳号も芭蕉に。 芭蕉は臨川寺(地図E)の仏頂禅師と懇意になり、たびたび参禅した。芭蕉の句に「詫」が反映するようになったのは、この禅師の影響が大きいと言われる。臨川寺の境内には、芭蕉由緒の碑などが残っている。芭蕉像もあるらしいが見過ごしてしまった。 最初の芭蕉庵は大火事で類焼。再建した庵は、「奥の細道」出発時に他の人に譲るなどしたが、旅から戻った後しばらくして、3度目の庵に入った。1694年に大坂で亡くなるまで、拠点は深川芭蕉庵だった。深川には14年間もいたことになる。 芭蕉の死後、芭蕉庵は飯山藩の武家屋敷に取り込まれたが、明治維新後に消失。ところが、1917(大正6)年の大津波のあとに、芭蕉が愛用していた石の蛙が出てきたという。東京府は、その地を芭蕉庵跡と決め、芭蕉稲荷神社(地図A)を建立。境内には、芭蕉庵跡の石碑や「古池や・・」の石碑が所狭しと並んでいた。蛙の置物もご愛敬だ。 稲荷神社の地が狭かったので、少し離れたところに芭蕉記念館(地図C)と芭蕉庵史跡展望台(地図B)が作られた。
序文の「住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに」の、杉風の別荘が採荼(さいと)庵(地図D)。奥の細道の旅に出発する直前の1689年3月に移った。「仙台堀川」近くのここから舟に乗って、千住に向かった。採荼(さいと)庵は風情のある建物ではないが、この芭蕉像はよくできていると思う。旅立ちの気構えのようなものを感じる。
「古池や蛙飛び込む水の音」は、1685年春に深川芭蕉庵で作られた。さすがお膝元。今回の散策で、3つの「古池や」に出会った。
深川をゆっくり探訪するには1日では足りないが、ここに書いた史跡だけなら、半日もあれば回ることができる。もちろん芭蕉記念館の資料をじっくり見たい人には、半日では足りないかもしれない。 (2008年4月12日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ 次(後藤新平)へ ホームへ |