行きあたりばったり銅像めぐり
 71回

  後藤新平

後藤新平立像 岩手県南部の水沢は、教科書に載っている偉人(高野長英・後藤新平・齋藤実など)をたくさん輩出している。2006年に合併して、今は奥州市水沢区である。6月14日の「岩手宮城内陸地震」報道で、奥州市の名前を初めて知った人もいるかもしれない。

 私は地震の1週間前の6月7日、平安時代の坂上田村麻呂の蝦夷征伐を調べるために奥州市を訪問。ついでに、後藤新平や齋藤実ゆかりの施設を見学してきた。同行者は、中高大と同じ学校だったOさん。

吉小路 後藤新平(1857〜1929)と齋藤実(1858〜1936)は、幼なじみ。生まれた年は1年違い、生まれ育ったのも吉小路(左)という同じ町内である。まるで薩摩の西郷隆盛と大久保利通のようだ。ふたりの「生誕150年」という表示が、あちこちに貼ってあった。

 今回はそのひとり後藤新平を取り上げる。銅像が立っていることも知らなかったが、なんと3体もの像にばったり出会ってしまった。右は、水沢公園にある像。

 説明には「大連星ヶ浦(今は星海)公園の銅像と同じ原型で1978年に建立 朝倉文夫作」とあった。台座の後藤新平像という字は、椎名悦三郎による。ちなみに椎名悦三郎(1898〜1979)は、後藤新平の甥。椎名家は、高野長英の家とも親戚だ。

 近所に住む田村淑子さんから「後藤新平の孫の内山章子さんと、50年以上もお友達なの。彼女も気概がある人でね。安保闘争のときに、椎名悦三郎に電話で抗議したのよ」という逸話を、ごく最近聞いた。その直後の出会いだけに、ことさら印象が深い。

 田村さんのお友達・内山さんは、鶴見和子さん・鶴見俊輔氏の妹である。和子・俊輔姉弟は、後藤新平の孫ということになる。私は後藤新平も鶴見姉弟も名前だけは知っているが、祖父と孫だとは知らなかった。

 話が少しそれるが、鶴見和子さんは元上智大学教授の社会学者。鶴見俊輔氏は京大・東工大・同志社大教授だった哲学者。ベ平連の設立者でもある。われわれ世代にとって、2人ともオピニオンリーダーだった。その2人が、保守本流の椎名悦三郎と親戚とは不思議なものだ。

後藤新平記念館 後藤新平の父は、伊達藩の支藩・留守家の家臣だったが、明治維新後は平民になった。戊辰戦争で新政府に最後まで反抗した伊達藩出身の場合は、出世もおぼつかない。その伊達の支藩から中央政府で活躍する人物が、なぜ2人も出たのか?「後藤新平記念館」(左)で、その答えが見つかった。

 記念館の受付にいた女性が、説明しながら一緒に回ってくれた。細かい字を読むのが面倒な私には、ありがたい。言葉の端々から、郷土の偉人を誇りに思っている様子がくみ取れて微笑ましかった。説明を聞いているうちに、新平の頭脳の良さと人柄を見込んで、手を差し伸べる人が大勢いたことがわかった。当時は、赤の他人に学費を出してやる事例がたくさんあったような気がする。社会全体で人物を育てた時代だったのかもしれない。

 略年譜
12歳→胆沢県庁の大参事・安場保和(肥後藩)の邸で、掃除などをしながら学校に通わせてもらう
16歳→安場氏の部下・阿川氏の援助を得て、須賀川医学校へ入学
24歳→愛知医学校長兼愛知病院長 「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助を助けた
25歳→内務省局長の薦めで内務省衛生局に入る。 安場和子と結婚
32歳→ドイツ留学
40歳→台湾総督府民政長官
49歳→南満州鉄道総裁
51歳〜59歳→桂内閣と寺内内閣で逓信大臣と鉄道院総裁を兼任
63歳→東京市長
65歳→少年団日本連盟(ボーイスカウト)総裁
66歳→帝都復興院総裁 
67歳→東京放送局(NHK)総裁
71歳→死去

 24歳の若さで病院長になったことも驚きだが、その後医学とは関係ない台湾総督府民政長官・満鉄総裁・鉄道院総裁を務めた。逓信大臣の時に赤いポストを導入、鉄道院総裁の時は鉄道の広軌化(今の新幹線と同じ)に情熱を傾けた。東京市長時代には、国家予算が15億円のときに、東京を近代化するには8億円がいると主張して「大風呂敷」とも言われた。

 日本ジャンボリーが開催されたときに、ボーイスカウトの総裁も引き受けた。東京近代化構想は、関東大震災でいったんは挫折したが、帝都復興総裁を引き受けた時に、おおいに役だったという。NHKが開局すると初代総裁になり、ラジオの普及に努めた。

 一生の間に、これだけのこと手がけた人は他にいるだろうか。「大風呂敷」の先には、将来を見据えるポリシーがあった。後藤新平のような先見の政治家が、混沌とした今の時代に出てきて欲しいものだ。

 記念館の半券には、次の言葉が印刷してあった。「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいをもとめぬよう 新平」

ボーイスカウト姿の銅像 赤いポスト NHK総裁時の銅像 後藤新平旧宅
水沢公園にあるボーイスカウト姿の像水沢公園には大きな像が2つもある。 記念館前にあるポスト。赤いポストは逓信大臣だった新平のアイディア。 記念館内の胸像。愛宕山のNHK放送博物館で、同じ像を見たことがある 後藤新平の旧宅入口。母屋などの内部も見学できる。新平の意志で水沢に寄付された。

 記念館を見たあと、今は奥州市が管理している旧宅にも行ってきた。18世紀中ごろの建築で、岩手県の有形文化財に指定されている。後藤家以外に、いくつかの武家屋敷や武家資料センターが、徒歩で回れる範囲に固まっている。地図を片手に歩くに限る。城下町を感じながらの水沢散歩は、実に楽しかった。

 水沢に住む姪の家の地震被害は、本棚から本がずり落ちただけだった。武家屋敷や記念館も無事だという。たくさんの人が訪れることが被災地を元気づけるので、ぜひ足を運んで欲しい。
(2008年6月23日 記)

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