行きあたりばったり銅像めぐり
  72回

   レフ・トルストイ

トルストイ像 日本でトルストイと言えば「あのトルストイ」だが、ロシアには他にも数人のトルストイという作家がいるので、レフ・トルストイとした。あのトルストイ(左)とは、言うまでもなく「幼年時代」「戦争と平和」「アンナカレーニナ」「復活」を書いた小説家。他にも思想家・教育事業家の肩書きを持つ。

 私が若い頃の世界文学全集には、ロシアの文学者がたくさん名を連ねていた。トルストイ・ドストエフスキー・ツルゲーネフ・ショーロフ・ゴーリキー・チェーホフ・プーシキンなどなど。

 トルストイ(1828〜1910年)とドストエフスキー(1821〜1881年)の2大文豪は、7歳しか違わない。ほぼ同時代に生きていたことになる。2人の交流が盛んだったという話は聞かないが、お互いを意識していたことだろう。

トルストイ全体像 7月3日からのロシアの旅で、モスクワの「トルストイの家博物館」と、サンクトペテルブルグの「ドストエフスキー文学記念博物館」を訪れた。今なお根強い人気があるのは、トルストイではなくドストエフスキーだというが、私はドストエフスキーの「罪と罰」を途中で放棄してしまったので、彼を語る資格はない。

 トルストイの家博物館に近い公園で、トルストイ(左)に出会った。怖い顔だが、写真も残っているので実像に近いのかもしれない。

 1882年から1901年にかけて暮らしていた家が博物館になっている。夏の間は郊外で過ごし、冬はここで過ごしたという。かつては工業地帯で、金持ちや文化人が住む場所ではなかったらしいが、敢えてこういう所に住んだのだと、学芸員が説明してくれた。この家も庶民から見れば豪邸だが、トルストイは大地主の伯爵の4男に生まれた。それにしては、貴族の館の華やかさがない。

 でもたくさんの文化人が訪れて、食事を共にして文学談義に花を咲かせたそうだ。ホールではリムスキー・コルサコフやタフマニノフがピアノを弾いたという。そのピアノや食堂がそのまま残っていて、それはまだ100年前のことなのだと改めて気づいた。

トルストイの家博物館 家の前でのトルストイ 食堂
大金持ちの割には質素な家 家の前でのトルストイ 文化人が集まった食堂
家族の肖像 ピアノあるホール 学芸員とガイドのスラヴァさん
奥さんのソフィアと子ども達。13名もの子どもが産まれたが5名は亡くなった ラフマニノフも弾いたというピアノ 左は博物館の学芸員、右はモスクワと近郊をガイドしてくれたスラヴァさん。
 
 「アンナカレーニナ」「戦争と平和」「復活」「幼年時代」「クロイツエルソナタ」を、若い頃に夢中になって読んだ。娯楽が少なかった当時は、大作を読むことが最大の楽しみだった。「戦争と平和」で、ナポレオンによるロシア遠征、そして撤退を知った。トルストイの分身と言われる主人公ピエールを通して、農奴にも温かい目を向けるトルストイを知った。

 晩年の作品「復活」も、トルストイの分身と思われる貴族が主人公だ。自分が棄てたが為に堕落したカチューシャを救済しようとする主人公を通して、社会の偽善を告発している。最近読み返した「復活」には、ロシア正教を冒涜している部分があった。そのためにロシア正教から破門されたという。

 「アンナカレーニナ」も、これを書くにあたって拾い読みしてみたが、主人公アンナばかりでなく、金持ちの地主の話が平行して書かれている。地主の描写には、実際に農場で働き、農奴の生活を救おうとしたトルストイの体験が反映しているそうだ。

 下層階級や政府から弾圧されている人達を救うために、自作の印税を寄付したり、自分の財産も手放そうとした。それが原因で、奥さんのソフィとの仲は険悪だったと言われる。でも、13名もの子どもに恵まれている。ほんとに険悪なら、たくさんの子どもは生まれなかったと思うのだが、なにはともあれ、1910年に家出をして、鉄道旅行中に肺炎で死去。

 トルストイの死後7年で、ロマノフ王朝は倒れ社会主義の国が誕生した。彼が存命だったら、貴族社会の没落を心から喜んだのか、本心はがっかりしたのか。聞いてみたい。

 学芸員の女性に「トルストイの子孫で、作家はいますか」と聞いてみた。「革命の時に亡命した人もたくさんいます。作家になった人はいませんが、ジャーナリストとしてモスクワで活躍している女性はトルストイの子孫です」の答えだった。(2008年8月11日 記)

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