73回 ロシアのモスクワとサンクトペテルブルグには、名前を知っている偉人の銅像がたくさんあり、写真を何枚も撮ってきた。全員を取り上げるわけにもいかないので、前回のトルストイと今回のエカテリーナ2世(右)で終わりにするつもりだ。 ロマノフ王朝は、1613年に即位したミハイル・ロマノフから1917年に退位したニコライ2世まで、300年間ロシアを支配した。そのロマノフ王朝の皇帝の中でよく知られているのは、ピョートル大帝とエカテリーナ2世ではないだろうか。 井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」を読み、同名の映画も見ている私は、主人公の大黒屋光太夫が謁見したエカテリーナ2世にどうしても興味が向いてしまう。 エカテリーナ2世の在位は、1762年から1796年と34年にも及んでいる。ロシアの領土をポーランドやウクライナに拡大した啓蒙専制君主でもある。彼女はロシア人ではなくドイツの貴族の娘。大国の后になるような家柄ではなかったが、縁があってロシア皇太子ピョートル3世と結婚。エカテリーナはロシア語を熱心に習得し、宗教もロシア正教に改宗した。他国から嫁いできた女性が天皇になるようなもので、日本の感覚ならとうてい考えられないことだ。 ピョートルとの結婚はうまくいかず、生まれた子どもの父親は、それぞれ別の愛人だったと言われている。ピョートル3世が即位するや、夫をクーデターで死に追いやり自分が帝位についた。これだけを知ると大悪女だが、ピョートル3世にも多々問題があったようだ。実際に30年間も大ロシア帝国を維持拡大したのだから、ある意味では偉大な女帝だったのだろう。 エカテリーナ像に出会ったのは、かつてのロマノフ王朝の首都・サンクトペテルブルグ。ネフスキー大通りという繁華街に面した公園の中央に、堂々と立っていた。銅像めぐりをHPで取り上げるようになってから数々の内外の銅像を見ているが、これほど立派な造りの像を見たことがない。しかも彼女の足下には、何人もがかしずいている。名前を書き取って来なかったが、10人はいたという愛人もこの中にいるに違いない。愛人は政治を支える人でもあった。
「おろしや国酔夢譚」は資料に基づいて書かれた小説である。紀伊藩の廻米を積んだ「神昌丸」が、伊勢亀山領白子の浜(今の鈴鹿市)を出航したのは、天明2(1782)年12月。数日後には江戸に着くはずだったが、遭難してロシアのカムチャッカ付近の小さな島に漂着。「神昌丸」には、船長の大黒屋光太夫はじめ17名が乗っていた。 光太夫らが漂着した1782年は、エカテリーナ治世20年目、アメリカの独立直後、フランス革命の直前といった時代である。日本は江戸時代の徳川家治の時。 ようやくエカテリーナに謁見できたときは、17名いた船員のうち12名が亡くなっていた。それを聞いたエカテリーナが「かわいそうに」とつぶやいたと言われる。帰国を許されてロシア船で日本に帰ったきたのは、白子の浜を出航してから9年9ヶ月ぶりだった。ロシアには、漂流民を送り届けるという名目で、日本と通商をしたいという思惑があったようだ。なにはともあれ、光太夫は10年ぶりに奇跡の生還をはたした。鎖国時代に外国を見たということで、江戸で幽閉の身だったが、再婚し2人の子どもが生まれたという。
光太夫がエカテリーナに謁見した「エカテリーナ宮殿」は、サンクトペテルブルグ郊外のツアールスコエ・セローという町にある。夏の4ヶ月間は、冬宮(今のエルミタージュ美術館)ではなく、この宮殿で過ごした。500もある部屋は「琥珀の間」などそれぞれ立派だが、謁見した「大広間」も広くて豪華。窓から射し込む光が、金色の彫刻や天井・床に反射してまばゆい。映画「おろしや国酔夢譚」の中で、緒方拳が演じた大黒屋光太夫と、マリナ・ヴラディが演じたエカテリーナが交わした会話を思い出していた。(2008年8月24日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ 次(齋藤実)へ ホームへ |