行きあたりばったり銅像めぐり
  74回

  齋藤 実

 齋藤実(1858〜1936)と聞いてもピンと来ない人が多いと思うが、2.26事件で凶弾に倒れた総理大臣経験者と言えば「あ〜」と思うかもしれない。銅像めぐり71回でとりあげた後藤新平とは、生まれも1年違い、生まれた場所も近い。中央で出世していく過程も似ている。下は、城下町水沢の「ぐる〜りマップ」の一部をコピーした図。水沢城跡に近いところに、齋藤実や後藤新平の旧居がある。

水沢の城下町マップ


 留守氏の城下町水沢で、安政5(1858)年に藩士の子として生まれた。藩校では後藤新平・山崎為徳とともに3秀才と呼ばれたが、彼が10歳のころに江戸時代は終わった。13歳で県庁給仕、15歳で上京し海軍兵学校に入学。その後アメリカ留学の機会を与えられるなど、海軍大臣、海軍大将とどんどん出世していった。

 今は岩手県内にある奥州市水沢区は、江戸時代は仙台の伊達藩領だった。伊達家一門である留守氏は1629年に水沢城に入城。明治維新まで240年間、伊達藩の北辺鎮護の任にあたった。だから後藤新平も齋藤実も高野長英も仙台藩出身ということになる。

 そのためかどうか、戦前の仙台に齋藤実の銅像があったことを最近知った。「七月十日は灰の町」(石澤友隆著・河北新報出版センター)の135頁に、昭和18年8月22日に銅像52体の壮行会が行われたとある。もちろん金属供出のためである。銅像の壮行会を行ったことが面白い。

齋藤記念館入館券 今年が生誕150年ということで奥州市水沢区の齋藤実記念館(左)では、大々的に企画展をしている。後藤新平記念館同様、「説明いたしましょうか」と年輩の女性が声をかけてくれた。郷土の偉人を説明することが嬉しくてならない様子だった。2・26事件後、水沢でひとりで暮らした春子夫人の素晴らしさを、特に強調していた。

 わずかの水沢滞在時間で、私は3体もの齋藤実像に出会った。朝倉文夫作の同じ鋳型ではないかと思うが、同じ像が、朝鮮総督府内にもあったという。

 総督府内に銅像があるのは、1919年〜1927年の8年間と1929年〜1931年の3年間、朝鮮総督を務めていたからだ。日本の植民地支配に対し朝鮮では「3・1独立運動」が起こった。その直後に原敬首相に要請されて朝鮮総督の任についた。彼の統治はローマ法王からも勲章をもらうほど、朝鮮人の人権を重んじるやり方だったという。この10年間だけは、力による支配から文治政策へ方針を転換した。朝鮮側の資料を読んでいないので、真実はわからないが、誇張でもなさそうだ。

春子夫人との像 胸像 水沢公園にある座像
記念館と旧宅の庭にある夫妻の像。春子夫人がメインの夫婦像で珍しい。 旧宅脇にある胸像。 水沢公園内にある像は、大きくて堂々としている。

 1932(昭和7)年の5・15事件で犬養首相が亡くなった後、第30代総理大臣に就任する。「ファッショに近い者は絶対に不可」が昭和天皇のご意向だった。その意向に沿えて軍部が反対できない総理候補としては、齋藤実しかいなかったらしい。ジュネーブ海軍軍縮会議での活躍なども考えると、海軍軍人とはいえ、リベラルで国際派の良識人だったのだろう。

 斉藤実から少し横道にそれる。齋藤内閣発足の閣僚に、文部大臣鳩山一郎の名前があった。のちに総理大臣になった鳩山一郎のことである。父が博士号を取得した昭和7年に、鳩山文部大臣が祝いの色紙を下さったことを父から聞いている。父の親が文部省の下級役人だったからだ。父が何気なく話していたことが、こんなところで繋がって嬉しくなった。

2・26事件の弾丸の痕 斉藤内閣は、ファシズムや軍国主義の防波堤になろうと努めはしたが、満州を承認し国際連盟を脱退するなど、軍国主義の流れを止めることは出来なかった。

 そして1936(昭和11)年2月26日、いわゆる2・26事件で凶弾に倒れた。このときは総理大臣ではなく、内大臣だった。これ以後、日本は一気に暗い時代に入っていく。

 左写真は、記念館に展示してあった鏡。2・26事件の時の弾丸が貫通している。2・26事件は歴史の1頁にしかすぎなかったが、この鏡を見て身近な出来事になった。
(2008年9月4日 記)



 上記「七月十日は灰の町」の著者である石澤友隆氏からお手紙をいただいだ。春子夫人が語る2・26事件の思い出も書いてくださったので、お読みいただきたい。(2008年9月16日 追記)

・・私、若いころ水沢通信部に4年間いたので懐かしいところです。齋藤春子さん晩年のころで、98歳で生涯を終えられ、葬式にも参列したことを覚えています。

 2・26事件が近くなると、うかがいました。顔を紅潮させてはっきりした口調で「寒い大雪の朝でございました。四谷の家ではハトが戸袋に巣を作っており、あまりガタガタするので最初はハトかと思ったんです。・・」とタテ板に水を流すように語り出すのです。一生に一度あるかないかのショッキングな事件に遭遇したのですから、あの思い出は脳裏にこびりついたいたのでしょうね。

 齋藤実は腰の低いよく人の世話をする人として、評判は抜群に良い。旧仙台藩士ということで昭和10年5月に行われた伊達政宗没後300年祭には実行委の総裁を引き受け、城の大手門左側にある「仙臺城址」の石碑は彼が揮毫するなど仙台にとってもいろいろと縁のある人でした。・・



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