行きあたりばったり銅像めぐり
  77回

 武蔵と小次郎

武蔵と小次郎 76回の「桃太郎像」に出会った翌日、2009年4月12日、下関に住んでいる高校の同級生Fちゃんが、山陽新幹線の「新下関」で待っていてくれた。Fちゃんの車で向かった先は、下関の唐戸桟橋。

 唐戸は、江戸時代は北前船の寄港地として賑わった港。魚介類や青果の卸店が軒を連ねる「唐戸市場」は、今も活気がある。唐戸から船で10分のところにある島が、巌流島だ。

 子どもの頃に、「武蔵と小次郎」の映画を見たことがある。主題は巌流島の決闘(左)だったので、小次郎が負けたことは知っていた。でも、その島が実在するなど思ってもみなかった。

 
小次郎
 小次郎像(左)は2002(平成14)年12月、武蔵像(左下)は2003(平成15)年4月に完成した。これは、NHKの大河ドラマ「武蔵MUSASHI」の放映(2003年1月〜12月)にあわせたもの。武蔵像の完成が少し遅いのは、武蔵が決闘の場に2時間遅れた事にこじつけたのかどうか。

 武蔵を市川新之助(今の海老蔵)、小次郎をTOKIOの松岡昌宏が演じたというが、ほとんど見なかったので話の筋は覚えていない。

 大河ドラマにあわせた宮本武蔵の展覧会場には、足を運んだ。そこで水墨画や著作「五輪書」を見て驚いた。剣の道一筋と思いきや、玄人はだしの水墨画や書や著作を残していたのだ。

 武蔵が亡くなったのは正保2(1645)年だが、生年は1582年と1584年の2説ある。生誕地も岡山説や播磨の国説がある。

 小次郎についても、出身は豊前の国、越前の国という2説があり、生年もはっきりしない。江戸時代初期の剣客ということしか分かっていない。

 でも島の案内版には、平成2(1980)年に武蔵の出身地とされる岡山県大原町と、小次郎の出身地とされる福井県今立町が下関と熊本の市長の立ち会いで姉妹縁組に調印したと記されてある。

 生誕地論争は、早い者勝ちという印象である。どこの町も観光客に来て欲しいから必死なのだ。「縁組みでもなんでもなさってください」と言いたくなる。観光客や町の人が喜ぶなら、それはそれでいいのではないかと思う。

 ところで、何が目的で2人が決闘したのだろう。これほど有名な
武蔵
決闘なのだから、原因があっても良いはずだ。誰かの敵討ちなのか、個人的な恨みがあったのか。

 少し調べたところでは、武蔵の自著には巌流島の決闘の記述は1行もないそうだ。吉岡一門を倒して京を去ったあと、武蔵の消息は熊本での晩年まで途絶えている。

 小説などに書かれた決闘場面は、武蔵の養子である伊織が刻ませた小倉碑文や、豊田景英が著した「二天記」などから取ったもので、史実としては信憑性が乏しいらしい。

 史実を追求するのが「銅像めぐり」の主旨ではない。島の案内板には、次のように記してある。

正式名称は船島です。(下関市大字彦島字船島)。面積は埋め立て部分を含めると103,000uの広さです。

慶長17(1612)年4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことはあまりにも有名です。「二天記」によると、巳の刻(午前10時)武蔵が到着。待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まりました。武蔵の木刀は振りくだされ頭上を打ちました。小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は小次郎の脇腹に振りくだされ勝敗は決しました。

勝った武蔵も相当あわてていたらしく、とどめを刺すのも忘れ船に飛び乗ったということです。負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。


 これを読んでも、何のための決闘だったのか皆目分からない。私たち5人が訪れたのは奇しくも4月12日。397年後の決闘前日に、のんきに銅像を眺めていたことになる。

 負けた小次郎の流派が、巌流だった。敗者にちなんで巌流島と名付けたのは、日本人の判官贔屓なのだろうか。いすれにしても面白い。

 訪れた日は、季節はずれの初夏のような日で空も海も青かった。「早鞆瀬戸」と言われ、流れが速いことで有名な関門海峡も、穏やかだった。昔、モノクロで見た映画の決闘場面とは似ても似つかぬ明るさだが、決闘の浜も復元されてあった。実際の島は断崖絶壁で浜などなかったが、ドラマ放映にあわせて新たに作ったと書いてあった。

巌流島標識 決闘の浜 決闘の短歌
巌流島の標識 決闘の浜小舟も置いてある。 森重香代子さんの歌
(2009年4月27日 記)

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